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ちょっと未来の生き方vol.01「変わりゆくものを求めて」

 2040年。限界集落が少しずつ自治機能を失い始め、自分の町もいつかそんなことになるのだろうかと、そんなことを考えながら、リョーマは日々を過ごしている。自宅周辺の担当地域への物の配達、農作物の生産と販売、農村地域の状況の発信活動。様々な仕事を掛け持ちし、充実した気持ちを持ちながらも、貧困層である自分に対する劣等感も抱えている。
 収穫した玉ねぎを手に取ると、リョーマは一瞬、誇らしい気持ちになった。これも自分の手で育てた、市場に出せば、それなりの収入にはなる。しかし、その収入は都市での家賃や贅沢品にまでは届かない。玉ねぎを積んだトラックのエンジンをかける瞬間、都市に住む友人たちの華やかな生活がふと頭をよぎり、胸に重苦しい劣等感が広がった。
 ふいに道端に目をやると、この街にふさわしくない様相の女性が闊歩していた。鮮やかな色のワンピースに身を包み、都会の香りを運んでくるような佇まい。彼女の姿は、この街のくすんだ景色に溶け込むことはなかった。こんな辺鄙な街に来るのは、富裕層に違いない。せっかくだから、自分のお店に招いてお金を落としてもらおう。

 「こんにちは。とれたての野菜、ありますよ。」

 興味を示してくれたのか、彼女は挨拶代わりの軽い笑みを浮かべながらこちらに近づいてきた。彼女が近づくたび、リョーマは自分の粗野な手や泥だらけのブーツが、ますますみすぼらしく感じられた。彼女が持っている「移動の自由」は、リョーマには決して手に入らないものだった。そんな彼女に話しかけるなんて、大胆すぎただろうか。そうこうしているうちに、彼女はトラックのそばまで駆け寄ってきた。
 
 「きれいな色の玉ねぎね。形も良いし、食べてみたいわ。」
 「玉ねぎ以外にも、いろんな野菜を作ってますよ。よければうちのお店で野菜カレーでも食べませんか?」
 
 女性は嬉しそうにうなずき、トラックの助手席に乗り込んだ。彼女が車に乗り込むと、リョーマは一瞬、自分が見慣れない世界に足を踏み入れたような気がした。彼女の笑顔が都会的で、どこか遠い存在のように感じる。それでも、彼女の目の中に、ほんの一瞬の好奇心や優しさを感じ取った。それがリョーマの胸を熱くした。
 恋の始まりなんてこんなものだろうか。みすぼらしい格好でありながらも、長身でそこそこのルックスを持ったリョーマに、アリスも惹かれていた。こちらから声をかけたことも、どうやらとても嬉しかったらしい。
 アリスは助手席に座りながら、リョーマがこの街で生きる姿に興味を抱いていた。都会とは違う、真っ直ぐな生き方。彼が育てた野菜の力強さと同じように、リョーマ自身にも自然の中で育まれた誠実さがあった。それが、彼の粗野な外見とは裏腹に、彼女を引き寄せていた。
 
 恋仲になった後も、アリスは旅を続けていた。都市から都市へ、会議とイベント、取材と撮影。その生活は彼女に新たな刺激と知識をもたらしてくれる。だが、いつも最後に思い浮かぶのは、あの小さな町にいるリョーマの姿だった。彼の土地で過ごす時間は、都会の喧騒とは対照的な静けさに満ちていた。それが、彼女を何度もあの場所に引き寄せた。
 リョーマの家に戻るたび、アリスは自分が平安時代の男になったような気分になった。あの時代、男たちは女の元に通い、愛を育んでいた。今、移動の自由を持つ自分が、逆にリョーマの元へ通うことで、二人の距離を埋めていたのだ。「昔の男たちもこんな気持ちだったのかしら」と、アリスは冗談めかして思った。けれど、彼女が彼の元を離れるたびに、心のどこかに、戻りたいという感情が募っていくのを感じていた。
 リョーマは彼女がまた遠くへ旅立つことを知っていた。彼女の生活は常に動き続けている。自分のように、同じ土地に根を下ろして生きる男には、到底理解できない生活だった。だが、それでも彼女が戻ってくるたびに感じる安心感が、彼の心の中で大きくなっていった。「彼女がこの町に帰ってくるのは、いつまで続くのだろうか」と、リョーマは一人の夜に、そんな思いを抱くことが増えていた。

 アリスが身籠ったと知ったとき、リョーマは喜びとともに、心のどこかで疑念が湧き上がった。彼女の生活は常に移動していて、どこにでも自由に行ける彼女が本当に自分の子供を宿したのだろうかと、どうしても考えてしまう。彼女が都会に行くたび、他の誰かと出会っているのではないかという思いが、頭の片隅を離れなかった。
「本当に俺の子供なのか?」リョーマは自分の声が震えていることに気づいた。
 アリスは真剣なまなざしでリョーマを見つめ、静かにうなずいた。「もちろん。私たちの子よ。」その言葉には揺るぎない確信があり、リョーマはそのまなざしを見つめているうちに、疑念は静かに消えていった。
 彼女の体が徐々に重くなるにつれ、アリスの移動生活は次第に制限されていった。自由に空を飛び回っていた鳥が、巣の中で過ごすようになったかのように、彼女は徐々に街や都市から離れ、リョーマのそばにいる時間が増えていった。最初はストレスを感じることも多かった。動けないことの不満、そして、以前のように世界を駆け巡ることができないという焦燥感が胸に広がった。
 しかし、同時に彼女は驚くべきことに気づいていた。リョーマと過ごす時間が長くなることに、彼女は奇妙なほどの安堵を感じていた。地方の静かな日々、彼が収穫した野菜で作った食事、そして自然に囲まれた空気。それらが、今まで感じたことのない充足感を彼女にもたらしていた。
 「子供が生まれたら、また移動生活に戻るのかしら?」アリスは心の中で何度もその問いを自分に投げかけた。彼女の計画では、出産が終われば、再びあちこちを旅する日々が待っているはずだった。
 だが、子供が生まれたその瞬間から、彼女の思考は変わり始めた。小さな命が日に日に変わっていく。泣いたり、笑ったり、初めて立ち上がったり、その一つ一つが彼女にとっては大きな出来事だった。そして、不思議なことに、彼女はその変化に全く退屈しなかった。
 「これが私の求めていたことだったのかもしれない」と、アリスは思うようになった。移動すること自体が目的ではなく、変化し続けることこそが、彼女が本当に望んでいたものだったのだ。目の前の子供の成長や日常の中で訪れる小さな変化。それは彼女に、かつての移動生活では得られなかった新しい満足感を与えてくれていた。
 アリスは、もう移動しなくても良いのかもしれない。彼女はそう考えると、驚くほど平穏な気持ちになった。
 リョーマと共に、静かな日々の中で、小さな変化に目を向けながら、彼女は新しい形の「変わりゆくこと」を見つけていくのだった。

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