君らの名は。アメリカミズアブ
キャップを深くかぶり、メガネにマスク、長袖のジャージを着て腕にはピンクの長ゴム手袋をはめた。
軍手を探したが見つからず苦肉の策のゴム長手袋。そして右手にはゴキブリ用の殺虫剤を持ったたぬきちは、朝8:05、出勤で足早に急ぐ人の多い歩道に立っていた。
ことの始まりは24時間前、昨日の朝8:05に遡る。
忙しなさと気だるさと共に、登校する子どもらを急かして玄関扉を開けた月曜日。
ドアを開けると、そこには昨日までと違う光景があった。
見たことのない黒い比較的大きい虫が、玄関前をブンブン飛び回っている。あまりに忙しなく飛び回るので、正確に数えられているのかわからないが5匹はいたと思う。
虫の本体と言えばいいのか、頭部から腹部まで2cmはありそうだ。胴まわりもけっこうしっかりしている。ちょっと気持ち悪い。
「君ら誰やねん!!!」
暴れ回る虫たちの間をかいくぐって、なんとか道路まで出た。出勤日なので、悠長に虫を観察していられない。
厄介なことになった。虫の群れを放置してひとまず出勤する。
しかし、頭からはあの虫たちの姿が離れない。帰る頃にはもっと大量発生していたらどうしようと恐怖に慄く。
電車に乗り、震える手でGoogle先生に質問する
黒い棒みたいな虫 飛ぶ 大きい
まずは敵の正体を知らねばと情報を探す。たくさんの人が「君ら誰やねん」と虫について調べていることがよくわかる。知恵袋には多種多様な虫の正体を問う質問が並んでいた。
添付されている画像と特徴から、どうやらハエ系かハチ系かのどちらかだと推測できた。
知恵袋の回答では、ハチ系なら、危険なので駆除が必要だという答えが多く、ハエ系だと不快だが人間に害はなく放っておいてはという回答がちらほら。
我が家の玄関先に群舞している彼らは一体?今日の様子なら、どうやらハエ系のような気がする。
こう感じたのは、彼らの勢いある飛び交い方にあった。というのも、あれは5年ほど前だっただろうか、アシナガバチがしょっちゅう玄関横のアオダモの木の皮をとりに来ていた時のこと。
その飛び方はまるで、晩ご飯のメニューをはっきり決めず、「店に行ってから決めましょう」てな感じで、スーパに来た主婦のようだった。
ゆらゆら、ふわふわ飛んでいた。ゆっくり様子を伺っているそんな感じ。
別の話になるが、このアシナガバチとは実は因縁があって、「えらいいっつも家の近くにいてるな」と思っていたら、あろうことか、たぬきちの電動自転車に巣を作っており、このハチの子どもらとけっこう長い間行動を共にしていたということがあったのだが、それはまた別のお話。
今朝みた彼らは、そんな悠長な飛び方ではなかった。ハチも恐らくは敵の襲来などがあれば、勢いよく直線的に飛ぶこともあるだろう。
しかし、今日は臨戦体制でもなさそうなのに、すごい勢いで飛び回っていて、例えていうなら、そう、あれに似ていた。
世紀末の漫画。主人公とその背後で怯える少年少女。歩き彷徨ううちに、ある愚連隊の陣地に足を踏み入れていた。
偵察隊である、雑魚キャラの男たちが、バイクに乗り、主人公達の周りをイヤらしく走り回る。
あちらから近づいたと思えばこちらから、その動きには規則性がなく、主人公や読者達をイライラさせる。そんな飛び方(どんなんや!!)。
恐怖と闘いながら、帰宅したが、夕方にはあの虫たちの暴れ飛ぶ姿はなかった。そして、急いでゴミ袋とスコップを用意した。
ハエ系だと予想している理由がもう一つある。実はあの虫たちが飛び回っていた中心部分にはみかんの残骸があるのだ。
冬の間、食べきれず傷んだみかんを、可燃として捨てるのは偲びなく、土に返そうとアオダモの足元に放っておいた。
春過ぎて、夏来にけらしで、いつの間にか雑草で覆い隠されていたが、確かにあそこにいくつかのみかんを放置している。
度重なる雨で腐り、とんでもない姿になったみかんお化けがハエ達をおびき寄せたのかもしれない。そう思っていた。
予想に反して、虫たちの姿はなく、今だとばかりに急いで、アオダモの根元の雑草をかき分ける。
みかんはそこに確かにあった。
しかし、カラカラに枯れて、中身はなく皮だけの姿になっていた。
誰か食べてくれてたんやな。そう思いながら、急いでゴミ袋に詰めた。このみかんがハエの発生源でもなさそうだが。
そんな事を考えながら夕食後、もう一度あの虫について調べる。多分あの虫らの名は
「アメリカミズアブ」
そしてショッキングな内容の記事を発見した。
大阪市立自然史博物館に寄せられた質問
あるご婦人がベランダで生ゴミを腐葉土で発酵させる取り組みをしていたが、その箱から大量のハエが発生し、大変ショックを受けているというもの。
その質問への学芸員さんの回答がこちら
生ゴミの匂いに惹かれてやってきた雌が産卵し、発生したものと思われます
発生したものと思われます
発生したものと思われます
会ったことのない学芸員さんの声が頭の中でリフレインする。
みかんだ!!!!!
そして、冒頭の火曜日の8:05
みかんは捨てたが、暴徒化したように荒れ狂うアメリカミズアブたち。みかんを失った悲しみで、怒り狂っているかのように、激しく飛び回る。
そしてあろうことか、集団登校をしている小学生の列にまで飛び込んで行く始末。子どもらの悲鳴が聞こえる。
「殺るしかない」
キャップを深くかぶり、メガネにマスク、長袖のジャージを着て腕にはピンクの長ゴム手袋をはめた。右手にはゴキブリ用殺虫剤。
子どもらが登校を終えたのを見計らって、ドアを少し開け、殺虫剤をアオダモの根元に向けて噴射した。
薬のせいで、足元の雑草の葉が妙にツヤツヤしている。様子を見ていると、アメリカミズアブの姿はない。
その代わりに、そこかしこでダンゴムシがひっくり返っている。
「ごめんよ」
生き物は万物みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なし
「ごめんよ」
アメリカミズアブに罪はない。
みかんを撒いておびき寄せ、産卵、羽化させ、成虫になったところで、殺生する。
何やってんだか。
自分の無知を呪うしかない。
ごめんよ。アメリカミズアブそして、ダンゴムシ。ふと隣家に目をやるとアオスジアゲハがヒラヒラと舞っていた。
▼アシナガバチのお話はこちら
(実は有料です)