太宰治記念館「斜陽館」の思い出1 津島修治の戸籍
「ここを過ぎて五所川原の市・金木町。」
大庭葉蔵は津軽鉄道の椅子に座って、自転車を見ていた。汽車は自転車に抜かれていた。
太宰治「道化の華」の出だしを真似した。
太宰治の生家であった邸宅が、現在は「太宰治記念館 斜陽館」となっている。そこを訪れた思い出を語ります(青森県五所川原市金木町)。
ちなみに「道化の華」の本当の出だしはこちら
(※ 著作権切れにより引用自由です。)
1、「津島修治」の戸籍が展示されていた!(撮影禁止)
斜陽館へのアクセスとかを語る前に、一番感激したことを語る。
太宰治:本名「津島修治」の戸籍のコピーが展示されていたのである。
もちろん、遺族の方の許可を得てのことだそうだ。
かつ当然ながら「津島修治」の記載箇所のみであり、妻子の方の記載箇所はない。撮影も禁止である。
ちなみに私はかつて仕事で、戦前や明治時代に作成された戸籍を読解していたので読めたのである(相続案件に必要)。いっしょにいた妻は興味を示さなかった。
以下、戸籍用語が出るのでわかりにくいとは思うが、記憶に従って「津島修治」の戸籍の内容を。
1(1)兄の戸籍から分家で分籍
・昭和初期に、兄が戸主(「こしゅ」、現代で言う戸籍筆頭者)の戸籍から、「分家」という形で分籍。「津島修治」が戸主の戸籍が作成される。
(・太宰の父:津島源右衛門は大正12年(1923年)に死去しているので、昭和初期には兄が戸主。兄は「津島文治」だったと思う。ちなみに父も兄も国会議員)
(ウィキペディアによれば、それまでの共産主義活動や、大学生でありながら地元青森の芸者である小山初代を上京させて内縁関係になろうとするにあたり、兄から分籍を条件とされたとのことである。しかしここで言う「分籍・分家」の意味が私にはよくわからない。兄が法的な扶養義務からは一応免除されるということか? その上で太宰と女性の生活費は出してやると。)
1(2)死亡の記載があまり読めず
太宰治は昭和23年、山崎富栄と玉川上水で心中する。享年38歳。
その死去の記載が、戸籍にどう書かれているか読みたかった。しかしコピーで手書きの字が薄れ、かつ私の目が弱いこともあり、あまり読めなかった。
かろうじて、死亡の記載であろう段落が「昭和二十三年~」から始まっているのは読めた。
私はもっと長いこと「津島修治」の戸籍を眺めていたかったのだが、そこには興味を示さない妻が他の部屋に行こうとするのでやむを得ず離れたしまった。
もしまた「斜陽館」を訪れることがあれば、事前にしっかりとコンタクトレンズを洗って来たいものだ。
とりあえず今日はここまで。