滝川さゆりが働いている小さな出版社は、秋は月刊誌のほかに別冊の発行、さらに来年度のカレンダーや手帳の申し込みとその発送業務が加わる。どうしても人手が必要になる。すでにアルバイトで入っていた青山武の紹介で、岡本史郎がアルバイトできたのだ。青山と史郎は、大学四年生だった。
さゆりの史郎に対する印象は、さほど良いものではなかった。フワフワして見えた。史郎は髪にパーマを緩くかけていて、踊るように歩くのだ。しかもメンズのファッション雑誌に出てくるようなファッションに身を包んでいた。いっぽう青山は地味な服装だった。
「岡本は、夜な夜なディスコで女の子をナンパしているんですよ」
青山の史郎に対する紹介の言葉だった。そう青山に揶揄された史郎だったが、仕事は手際よくこなしていた。さゆりは、青山の言葉のせいか、史郎のことを「ナンパ師」と決めつけてしまった。
十二月に入ったころ、さゆりが会社の流しでコーヒーカップを洗っていると、背後から史郎が声をかけてきた。
「滝川さん、映画好きだって聞いたけど」
さゆりは振り返った。
「あら、どうしたの? ええ、映画好きよ。カップ一緒に洗ってあげるから置いていっていいわよ」
「ありがとう。あのさ、映画のチケットが2枚あるんだけど、実は今日までなんだよ。もし、予定なかったら、一緒にいってくれないかな。俺一人で映画見に行きたくないんだ」
「どうして? 私は見たい映画があったら、時間見つけて一人でも平気で行くけど」
「へえ、そうなんだ。でもさ、面白い映画見た後、ああだ、こうだって熱く語りたくない?」
「まあね。で、なに?」
史郎は、映画のチケットをポケットから取り出して見せた。
「あっ、これ見たかった映画だわ。今日でおしまいなの?」
「そうだよ。ならいっしょに行こうよ。俺のおごり。今日土曜日だし、仕事三時まででしょう、渋谷の映画館だし」
さゆりは、腕時計を見た。
「まあ、いっか。今日は何も予定ないし。私の仕事は、今日もう終わりだから、すぐ行こうか。次の回に間に合うよね」
「やった!」
史郎は、満面に笑みを浮かべた。さゆりは「この子、こんな顔して笑うんだ」と、屈託のない笑顔に心がふっと緩んだ。
「会社の横の喫茶店で待っているね」
史郎は、踊るような足取りで流しを出ていった。
映画は「マトリックス リローデット」キアヌ・リーブス主演の近未来もの。映画館の座席はほぼ満席。今日が最終日だからだろう。
映画が始まり、場内は暗くなる。史郎は、さゆりの太ももに手を置いた。さゆりは、黙って、史郎の手を払いのけた。
映画が終わり、場内が明るくなる。
「面白かったね。続きは、食事しながら話そうよ」
しばし、さゆりは黙っている。映画は確かに面白かった。映画の話はしたいとは思ったが、恋人でもない史郎に気やすく体を触られたのが不愉快だった。さゆりは黙って立ち上がった。史郎も立ち上がり、さゆりの後に続いた。
空はすっかり暗くなっていた。
「ねえねえ、何食べたい? 俺、おなかすいちゃったよ。中華、イタリアン、それともお好み焼き? お好み焼きならおいしい店知っているんだ。ねえ、お願いだよ。映画見たら、映画の話したいんだ」
「私は岡本君がナンパするディスコのお姉ちゃんじゃないんだから」
「俺、ディスコでナンパなんてしないよ。洋楽が好きで踊りが好きなだけだよ。音楽に合わせて踊るのって楽しいよ。さっきはごめんなさい。手が勝手に動いちゃったんだ。滝川さんって、俺の好みだから。この手が悪い」
史郎は、自分の手をピシャっとたたいた。
「私は年下に興味はないからね。青山君が、岡本君は夜な夜なディスコでナンパしているって言っていたけど」
「あいつ、友達のことをそんなふうに言っていたんだ。ひどい奴だな。もしかして、滝川さん、ディスコ行ったことないの?」
「ないわよ」
「じゃあ、今度誘うよ」
「誘わなくていいわよ」
「まあ、とにかく腹ごしらえしようよ。お好み焼きでいいかな?」
「みよし」は、学生たちが好むようなお店だった。土曜日の夕暮れ時、一つだけ席が空いていた。
史郎は、手際よくお好み焼きを焼いていく。
「ネオは救世主だったね。カンフーもかっこいいけど、恋愛映画でもあるね」
「恋愛映画?」
「そう、トリニティとのね。彼女は最後に死ぬ前にネオに『愛している。あなたのそばに居られて幸せだったっていうじゃない。自分は体中に金属の棒みたいのがいっぱい刺さっていて、もう息絶えなんとしているときにさあ。恨みごと一つ言わずにだよ。グッとくるねえ。ネオもさあ、世界を救うのか、トリニティを救うのかと敵の親玉に迫られたとき、迷わず、トリニティを助けに行ったよね。俺もそうする」
「へえ、そうなの?」
「俺、滝川さんを幸せにするよ」
「あら、映画の話からずいぶん飛ぶのね。さっき、言わなかった私は年下に興味ないって」
「あのね、俺、実は滝川さんより年上なの。大学4年生だけど、訳ありで二十四歳なの」
「へえ、そうなんだ」
「それだけ? 訳知りたくない?」
「別に知りたくないけど、話したいなら聞いてあげる」
「じゃあ、聞いてよ。別の大学の法学部に入っていたんだけど、なんか違うなあって思って、今の大学に入りなおしたんだよ。だから、滝川さんより一つ年上」
「そう。たいした理由でもないのね」
「おれさ、実はこう見えても苦学生なんだよ。アルバイトで授業料稼いでいるんだ。中学一年の時、親父が癌で突然死んじゃったんだ。兄貴が一回り離れているので、兄貴が父親代わりみたいに俺たちのこと面倒見てくれて、兄貴には感謝しかないよ。お袋もオヤジが死んでから、病院で患者さんの付き添いの仕事で病院に泊まり込みで働いていた。だからさあ、高校に入った時からバイトして、自分の身の回りのものは、自分で賄っているんだ」
フワフワした感じの遊び人と思っていた史郎の以外な一面を聞き、彼の見方が少し変わった。
「滝川さんみたいに、女性が社会でバリバリ働いている姿って格好いいと思う。これからの女性はそうじゃなきゃね」
「私、会社は腰かけよ」
「えっ、そうなの? あんなにバリバリ仕事しているのに」
「私の夢は、作家になること。だから、本もいっぱい読むし、映画もいっぱい見ているの。取敢えず、話題になった映画や小説はほとんど読んでいるわ」
「へえ、素敵だね。ますます滝川さんが好きになっちゃうよ」
さゆりと史郎は、本の話で盛り上がった。
それから、三か月後、史郎とさゆりは結婚した。付き合ってたったの三か月での結婚だった。史郎は、卒業ぎりぎりに就職が決まり、さゆりにプロポーズした。
結婚して六か月後、二人に新たな命が宿った。つわりがひどいさゆりは、仕事を辞めた。その分、史郎は、夜、証券会社の証券書き換えのアルバイトをして家計を支えた。新入社員の給料は安いからだ。
仕事が休みの日には、さゆりがお弁当を作って近くの公園でのんびり過ごした。
史郎は、絵を描くのが好きだった。さゆりの姿をスケッチしたり、時には自画像も描いた。
「この自画像よくかけているわね。額を買って壁に飾りましょうよ」
「それほどでもないけどね」
さゆりは、史郎の自画像を額に入れて壁に飾った。
「ねえ、見て。額に入れたら、すごくよく見える。名の知れた画伯の絵みたいよ」
史郎は嬉しそうにほほ笑んだ。
幸せの後ろから不幸が音もたてずについてくる。
ある日、さゆりは、激しい腹痛に襲われた。苦しさのあまり、タクシーを呼び病院に行っ
た。その場で入院になった。さゆりは、急性膵炎だった。
「もう一歩遅かったら、あなたは死んでいるところでしたよ」
さゆりの鎖骨に静脈注射が打たれ、そこから栄養が入っていく。妊娠六か月のさゆりには、
何も食べられないことがとても心配だった。お腹の子どもは、栄養が必要だ。この子はちゃ
んと育つだろうか。口からものを入れると、すい臓がアミラーゼを出し、自分の膵臓を溶か
してしまうそうだ。だから、食事はおろかお水さえも飲めない。
史郎は、知らせを受けて病院に飛んできた。心配そうにベッドに寝ているさゆりの手を握
りしめている。
「来週、出張の予定が入っているんだけど、断ろうか?」
「大丈夫よ。病院で安静にしているんだから。お仕事頑張って」
それから、数日後、出張から帰った史郎は、病院に向かった。史郎は、さゆりを元気づけ
ようと、出張先での話などしながら、上高地で撮ったきれいな風景の写真を見せた。
「上高地は水がきれいでいいところだったよ」
「よかったわね。仕事もうまくいっているようで」
史郎は、仕事が終わると、毎日病院によった。
二か月の闘病生活を経て、さゆりは無事退院した。妊娠八か月といえば、お腹が膨らんで
いるころだが、さゆりのお腹はぺちゃんこだった。二か月絶食の生活が続いていたのだか
ら仕方のないことだった。それでも、お腹の子どもは無事に育っていた。退院しても食事療
法は続けなければならなかった。千二百カロリーの食事にしなければならない。卵はお湯に
落したもの、ゆで卵、油は極力控えた。タンパク質接種のために納豆は毎日食べた。野菜も
蒸したものか、生野菜を食べた。史郎のためには、別の献立で肉も魚も食べさせていた。
「この子は、きっとすごい使命を持って生まれてくるのね」
さゆりは無事に子供を出産した。
さゆりは、徐々に健康を取り戻しつつあった。子育てと家事で毎日が目まぐるしく過ぎて
いく。子どもの寝顔を見ると、幸せを感じた。
ある日、押し入れの掃除をしているとき、夫の旅行カバンが目に入った。何気なく、旅行
カバンを開けてみると、茶封筒が入っていた。開けてみると、なんと上高地の写真が何枚も
入っていた。さゆりが史郎に病院で見せてもらったもの以外が入っていた。さゆりの手が震
えた。
「なにこれ」
さゆりの心は、怒りに染まった。涙がこぼれてきた。胸の中でシャボン玉がぱちんと壊れ
た。
その夜、夫が帰宅するのを待った。にこりともしないさゆりを見て、夫は訝しがった。
「いったい、どうしたの? 具合でも悪いの? 寝ててもいいんだよ」
「あなたに大事な話があります」
食事がすんだ頃を見計らって、押し入れの夫の旅行カバンから出てきた茶封筒を差しだ
した。夫の顔色が変わった。
「あなた、上高地に女と行っていたのね。ひどいわ。私が病気で入院中に」
「ごめん。もう彼女とは、とっくに分かれたよ」
「ひどいわ。あなたを許せない」
さゆりは、台所に向かった。台所から包丁を取り出した。
「うわあ、何するんだ。早まるな。悪かった。悪かったよ。反省しているよ。もう二度としないよ」
さゆりは、壁にかかった史郎の自画像を手に取り、泣きながら狂ったように包丁で何度も
何度も刺した。史郎は、背中からさゆりを抱きしめた。
「ごめんよ。ごめん。こんなにさゆりを傷つけてしまって」
潮風が頬をくすぐる。夕陽が海や空を赤く染めている。岡本さゆりと史郎は、肩を並べて赤く染まる世界を眺めている。二人は、結婚二十四年。プレ銀婚式でハワイに来た。
「夕陽はきれいだけど、なんだかさびしいね。人生の終わりのような気がする」
「俺たちの人生は、まだまだこれからだよ」
「いろいろあったわね。もう勘弁してほしいわ」
「幸せにするよ」
さゆりは、黙って赤く染まった海を眺めている。
「私は、自分で自分を幸せにするわ。幸せは自分の心の中にあるって気が付いたの。誰かに幸せにしてもらおうとは思わない。そして、あなたを私が幸せにしてあげるわ」
さゆりと史郎は、いつまでも夕陽を眺めていた。