ミッキー、フィールドの風になれ!
ミッキー、フィールドの風になれ!
森本 薫
1
カーテンの向こう側が明るくなってきた。原美由紀は、目を覚ました。
「よっしゃ! 今日も目覚ましより先に目が覚めた」
美由紀は地元のサッカークラブに入部してから早起きになった。学校に行く前にサッカーの練習をするようになったからだ。部屋の壁には澤穂希のポスターとその隣には「オリンピック選手になる!」と書いた紙が貼ってある。
今日もベッドから飛び出すと、テイシャツにハーフパンツをはいた。すらりと伸びた脚。小学五年生なのに、すでに一六〇センチある。肩まで伸びた髪をポニーテールに結び、鏡に向かってにっと笑ってみる。これは毎朝の習慣になっている。
小学校の入学式の日、美由紀はとても不安になり、「学校に行きたくない」とぐずった。
その時、母親から「ほら、笑ってみて。素敵な笑顔ね。笑顔になると、楽しくなるの。友達もいっぱいできるわよ」と言われた。魔法にかかったみたいに、美由紀の心から不安が消えた。それ以来、ずっと続けている。
「お母さん、行ってくるね」
「今日は早めに戻ってらっしゃい。試合に遅れたら大変だからね」
「はーい」
サッカーボールを持って玄関のドアを開けると、向かいのドアが開き、中沢博人が出てきた。博人は、美由紀より少し背が高い。
「おはよう、ミッキー」
「おはよう、博人」
「行くか?」
「うん」
二人は顔を見合わせてくすっと笑った。試合の朝でも、お互いにいつもと変わらない時間に自主練に行くことがおかしかった。
美由紀と博人は、誘い合わせているわけではないが、毎朝、サッカーの自主練で一緒になる。幼稚園から気の合う二人である。地元のサッカークラブには、博人の方が先にはいっていた。
早朝の空気は、きりりと冷えて心地良い。二人は近くにある芝生の公園まで走っていく。公園には、美由紀と博人しかいない。響いているのは、ポーン、ポーンとボールの弾む音だけ。二人は足の甲や太ももや肩や頭を使ってリフティングを続けている。「リフティングをすることで、ボールを操ることがうまくなる」と、二人が入っているサッカークラブフジFCの藤田監督に言われたからだ。
美由紀のボールが、地面に落ちた。博人は、まだ続いている。美由紀は博人が器用にボールを操っているのをじっと見ている。しばらくして、博人のボールも地面に落ちた。
「博人、すごいね。百回できたんじゃない」
「ううん、百一回だよ」
博人は腕時計を見た。
「ミッキー、まだ、少し時間あるからパス連習する?」
「うん、いいよ」
二人は、パスを出し合いながら走る。美由紀のポニーテールが揺れる。
「ミッキー、いいよ。その調子。今日の試合、頑張ろうぜ」
「うん、私は初試合だから緊張している」
「大丈夫だよ。いつものミッキーらしくやればいい。大事なことは周りをよく見ることだよ。サッカーはチームでやるものだからね。さあ、帰ろう」
「ふふふ、博人ったら、藤田監督みたいなこと言っちゃって。じゃあ、家まで競争ね」
ミッキーはボールを抱えると、笑いながら一人先に走り出した。博人は、すぐにミッキーに追いついた。
2
美由紀が家に帰ると、食卓には朝食の準備ができている。お父さんはお茶を飲みながら、新聞を読んでいる。
「お父さん、珍しい。日曜日なのに起きている」
「当たり前だ。今日は美由紀の初試合だろ。寝てられないよ」
「やだ、お父さんが試合に出るわけじゃないのに」
美由紀が笑う。
「食事にしましょう。あとでお父さんと応援に行くからね」
美由紀は、テーブルの上のものをじっと見つめている。
『食べないの? 美由紀の好きなものばかりよ』
「食べられそうもない。緊張がマックスになってきた」
「今、食べておかないと試合の途中で体力が持たなくなるわよ」
「いつものくいしんぼうは、どうしたんだい?」
お父さんは、ほほ笑みながら言った。
「だって、初スタメンだよ。緊張するよ」
「そんなときは深呼吸よ。一緒にやりましょう」
美由紀は、お母さんと一緒に深呼吸をスーハ―、スーハ―と何回か繰り返した。
「うん、不思議。おちついてきた。食べる」
美由紀は、モリモリ食べ始めた。
「ヨガの呼吸法の効果は絶大だね。さすが、お母さん」
「美由紀、緊張したら深呼吸よ。そして、笑顔よ。笑顔はリラックス効果もあるの」
「うん、わかった。私、頑張る」
美由紀がにっこり笑った。
3
美由紀と博人が試合会場に着くと、それぞれのチームのメンバーたちが、ユニホーム姿で集まっている。どのチームからも「自分たちが勝つぞ」という意気込みが伝わってくる。応援の家族やチームの友達も来ていて、熱気に満ちている。二人は、フジFCのチームの集合場所に急いだ。小田恵介が大きく手を振っている。
「多い、博人、ミッキー、遅いぞ」
博人が腕時計を見る。
「ちっとも遅くない。恵介は自分が早く来ると、後から来る奴は遅刻扱いだ」
「まったくね」
美由紀が相槌を打つ。
「でも、恵介には、それを言わない方がいいよ」
「わかってるよ」
フジFCチームメンバーがそろった。藤田監督がみんなの顔を一人ひとり見る。
「いいか、みんな。サッカーはチームプレイだ。自分がボールを持っていないときは周りをよく見ろ。ボールを持っている者のアシストができるように心がけろ。そして、シュートを打つチャンスがあれば、迷わず打て。失敗を恐れるな。ベンチ組は、いつでも自分がフィールドに出てもいいように、ゲームをしっかり見ていること。今回、ミッキーをスタメンに入れたのは、どんな時でも真剣にゲームを見ていたからだ。そして、みんなでチームを応援しよう。心はひとつ。一緒に戦おう」
「はい」
チームのみんなは、大きな声で返事をした。
藤田監督が美由紀を呼び止めた。
「いつもの練習通りやれば大丈夫だ。今までベンチで試合を見てきたことを生かす時が来たね。ミッキーは大きな声でチームのみんなを応援していたもんな」
藤田監督は、美由紀の肩をポンとたたいた。
「はい、頑張ります」
「失敗してもいい。思い切りやれよ」
美由紀は、藤田監督が自分のことを見ていてくれたことがうれしかった。
4
フジFCの試合が始まる。対戦チームと並んだ。
「女子がいるぞ」
「いいね。楽勝じゃん」
相手チームからあざけるような声が聞こえる。小田恵介が舌打ちする。
「チェ、ミッキーがいるからなめられた」
「恵介、ミッキーは、仲間だろう。有力な戦力だよ」
「わかっているけど、なめられるのは癪にさわる」
「博人、平気。気にしないもん。一点決めてやるから」
「おう、その意気だ」
試合開始のホイッスルが鳴る。それぞれの選手が自分のポジションにつく。一つのボールを追って、選手たちが走る。美由紀も走る。博人も走る。恵介も走る。足の速い三人のポジションは、フォワードだ。
恵介から博人へパスが来た。博人の周りには、相手チームがボールを奪おうと駆け寄ってくる。博人は周りを見る。美由紀はノーマークだ。博人は美由紀にパスを出した。
ノーマークだった美由紀は、博人のパスを受け、ドリブルしながらゴールに向かって走り出した。軽やかなドリブルだ。
「チャンスよ。女の子がボールを持っている取れるよ!」
「いけ、いけ! 女子よ。取れるよ!」
「チャンスよ! 女子だから弱いよ!」
美由紀はむっとした。応援席の母親たちからの「女子だからボールが取れる」とヤジが飛ぶ。
「むかつく。自分たちだって、年取った女子のくせに」
美由紀に相手チームの選手がタックルを仕掛けてきた。美由紀は懸命にかわす。一人、二人、三人に囲まれた。
「ええい、シュートを決めてやる!」
やけになった美由紀は、ゴールめがけてシュートを打とうと、脚を振りかざした。その時、相手チームの一人が、ボールめがけてスライディングしてきた。ボールはフィールドの外に飛び出していった。
「ばかやろう。そこはシュートじゃなくてパスだ。俺にパスしろ」
恵介が叫ぶ。
博人は、美由紀の肩をポンとたたく。
「気にするな。チャンスがあればいつだってシュートしていいんだ。失敗を恐れるな。でも、周りをよく見る」
「うん、そうだね。母親たちのヤジに負けてムキになっちゃったみたい」
美由紀は博人に微笑むと、心の中の怒りがスーっと消えた。
相手チームの母親が、フィールドの外に出たボールを拾った。美由紀がボールを取りに行くと、その母親が美由紀にボールを投げてよこした。美由紀はボールを受け取ると、にっこり笑い「ありがとうございます」と大きな声で言い、深々とお辞儀した。その瞬間、応援席の大人たちが静まり返った。
美由紀は、ボールをゴールに一番近くにいる恵介めがけてスローインすると、フィールドの中に入り、ボールを追って走り出した。その瞬間から、相手チームの応援席からの美由紀へのヤジがなくなった。美由紀は笑顔の力を感じた。
「お母さんの言うとおりだ。笑顔は、人と人を結ぶ力がある」
「ミッキー、頑張れ!」
「フレー、フレー、ミッキー!」
応援席を見ると、お父さん、お母さんが美由紀に満面の笑顔で手を振っている。美由紀も笑顔で手を振った。
恵介はボールをキープして、ゴールめがけてシュートした。ボールはキーパーにキャッチされた。
ボールは右へ左へ前へ後ろへと生き物のようにフィールドの中をせわしなく動いていく。美由紀は、ボールを追って風のようにフィールドを駆け巡る。ポニーテールが揺れる。どちらのチームもシュートが決まらず、一転も取れずにいる。
相手チームのコーナーキックになった。美由紀、博人、恵介は、相手チームのゴールのそばに走りこんだ。その時、美由紀の顔にコーナーキックのボールが当たった。倒れこむ美由紀。駆け寄る博人、恵介。審判がホイッスルを鳴らす。
美由紀は痛みをこらえて立ち上がった。美由紀の頬は赤くなっている。
「大丈夫か? 頬が赤くなっている」
「これくらいなら、大丈夫」
「そうか? 安心しろ。顔に傷ができても俺がもらってやるから」
「えっ?」
フジFCにPKのチャンスがきた。博人がボールを持ち、ゴール前に立つ。
「ミッキーの仇を取るからな」
博人は緊張した面持ちで、深呼吸を一つすると、脚を大きく振り上げシュートした。
ゴールの網が揺れる。ボールはネット右上に見事に決まった。フジFCは、一転を決
めた。満面の笑みでガッツポーズをする博人。チームのみんなは、博人に駆け寄り喜んだ。
その時、前半戦終了のホイッスルが鳴った。
「ミッキーの顔面アタックのおかげだな」
恵介が言った。
「顔面アタックするつもりはなかったけどね。衝撃的な痛さだよ」
美由紀は、頬さすりながら言った。
後半戦は、美由紀にもぴったりと相手チームのマークがついた。相手チームは必死
の勢いで攻めてくる。相手チームのシュートが決まった。
博人も恵介も何度かゴールに向かってシュートしたが、キーパーにセーブされてしまった。後半戦がもうすぐ終わろうとしている。
博人が相手チームからボールを奪った。それを見た美由紀は、ゴールのほうに走った。ボールは相手チームをすり抜け、美由紀の目の前に来た。毎朝、美由紀と博人は、一緒に朝練していた。だから美由紀には、博人のパスが来る場所がわかったのだ。恵介もゴールに向かって走る。いつでもアシストするためだ。
「無理するなよ」
恵介が叫ぶ。
美由紀は迷わずゴールめがけてロングシュートを打った。ゴールの網が揺れる。ボールはゴールに入った。
キーパーは、美由紀のシュートに反応できなかった。まさか、ゴールから遠く離れたところからシュートを打つとは思いもよらなかったのだろう。
美由紀は、思わずガッツポーズを決める。博人、恵介、チームのみんなが、美由紀に駆け寄る。そして、試合終了のホイッスルが鳴った。二対一で美由紀たちのフジFCが勝った。選手もベンチ組も監督も円陣を組んで、勝利を喜び合った。
5
原家の夕食は、豪華なお祝いの食卓になった。美由紀の大好物が並んでいる。
「美由紀、今日はよく頑張ったね。さすが父さんの子だ」
「照れるな.たった一点決めただけだよ。博人がいいパスをくれたからシュートが打てた。サッカーはチームプレイだからね。運がよかっただけだよ」
「それだけじゃないの。あのヤジに対しての美由紀の態度、とても立派だった。やじられたのに、美由紀はにっこり笑って『ありがとう』って言えるんだもの。お母さんは、とてもうれしかったのよ。こんな素敵な子に成長してくれたんだもの」
美由紀は照れ笑いした。
「ほめすぎだよ。お母さんが『いつも笑顔でいなさい』って言っているから自然に笑顔になれたんだ。てことは、すべてお母さんのおかげだね」
お母さんは、思わず美由紀を強く抱きしめた。
「この子ったら」
「それにしてもでかい声だったな。『ありがとうございます』って。一瞬にして外野がシーンとしちゃったものな」
みんなで笑った。
その時、電話がなった。お母さんが電話を取る。
「はい。そうです。はい。ええ、喜ぶと思います」
お母さんの声が上ずっている。受話器を置くと、ぼおっとしている。
「なに?」
美由紀の声にお母さんは我にかえった。
「今、日本女子代表チームの監督から電話があったの。今度の夏休み【アンダー17】の強化合宿に参加しないかって」
「ほんとう? 夢みたい」
「夢じゃないわよ」
お母さんがほほ笑んだ。
「やったな。美由紀、夢の扉を開いたな」
美由紀は自分の部屋に戻ると、澤穂希のポスターに向かってⅤサインをした。
「必ず世界に行きます。見守っていてくださいね」
澤穂希のポスターが、美由紀に向かってほほ笑んだような気がした。今夜は嬉しくて眠れそうになかった。博人に早くこの事を話したかった。