
自衛隊の思い出と、銃についての思索
以前カクヨムに投稿した文章を加筆・修正してます。
元自衛官だと言うと、たまに「へぇーそれじゃ銃撃ったことあんの?」的な質問をされることがある。もちろんある。
そして思う。この「銃撃ったことあんの?」的な質問をする人が脳内に思い浮かべている「銃」とは、どんな形の、どんな銃なんだろうか。
もしかして、片手で持てる「拳銃」を思い浮かべてはいやしないか。
拳銃を持てる自衛官は限られている。主に幹部と、戦車の車長などの限られた隊員だけが携行できるのだ。つまり、大抵の自衛官は拳銃と縁がない。私も例に漏れず、触ったことすらない。
訓練検閲で幹部がレッグホルスターを付けているのは見たことある。あとは、拳銃射撃の検定だとか言って中隊長が武器庫から出してた記憶がちらほらある。拳銃の思い出はそんな程度しかない。
多くの一般自衛官にとっての「銃」とは即ち「小銃」のことを指す。ピストルではなくライフル。
陸自では、入隊後の新隊員教育で小銃の取り扱いを徹底的に叩き込まれる。小銃に触れない日はほとんどない。毎日武器庫から搬出して、訓練して、分解して整備して、結合して武器庫に格納する。小銃は陸上自衛官のメインウェポンであり、必修科目なのだ。
入隊式の後、記念会食が終わって制服から迷彩服に着替えると、次に待っているのは「銃授与式」というイベントだ。区隊長から小銃を直接手渡され、手渡された小銃が自分の銃になる。三ヶ月間の教育期間中、ずっとお世話になる自分の銃。
よく言われたのが「自分の銃に愛着を持て」とか「銃に名前をつけて可愛がれ」的なことで、映画『フルメタル・ジャケット』になぞらえて「銃に女の名前をつけろ」などと言ってくる班長は結構いた。多分どこの教育隊でもその手の台詞が飛び交っているのだろう。
新教(新隊員教育)の同期で、班長たちに「可愛がられてた」陽キャがいた。お調子者の憎めない奴で、区隊のムードメーカーだった。武器整備の時間、ある班長がそいつに「おまえ銃に名前つけたのか」と絡み出した。
「名前っすか?つけました」
「なんて名前だ」
「モモカっす」
「ももか?」
「彼女の名前っす」
ちなみにそいつはモモカとすぐ別れた(フラれた)。会えない寂しさに耐えられなかったらしい。しばらく落ち込んでいたが、数週間後、元気にマッチングアプリを楽しむ奴の姿があった。
脱線したので話を銃に戻す。
小銃の用途は多岐にわたる。射撃はもちろんのこと、基本教練(敬礼や行進などの決められた動作)にも、格闘訓練にも使う。格闘では小銃を鈍器のように振り回すのでとにかく疲れるのだが、慣れてくると案外楽しくなる。冷静に考えれば普通に殺人術なのだが、それを言うなら普通の格闘技だって殺人術みたいなものだ。
座学と体育以外のあらゆる科目に小銃が関わってくるので、自然と愛着がわく。わかない方が不自然だ。文字通り寝食を共にするのだから。
前述の映画『フルメタル・ジャケット』では、新兵たちが自分の銃と一緒に寝るシーンがある。銃を構えたままベッドインするのだが、教官は「今宵お前らは銃を抱く」と言い放つ。銃はお前の恋人なんだから大事に扱え、銃と一心同体になれ、という意図の発言だろう。
この「銃を女に見立てる」文化(?)のルーツはどこにあるんだろうか。私はてっきりこの『フルメタル・ジャケット』から伝播したものだと思っていたが、ベトナム戦争を描いたこの作品よりもずっと以前に、小銃を女に見立てている小説が書かれていた。小島信夫の『小銃』(1957年発表)という短篇小説だ。
銃把をにぎりしめると、私の存在がたしかめられた。そこから生命が私の方へ流れてくるように思われた。銃把は女がみごもる前の腰をおもいおこさせた。私はかなしみをこめてその細い三八銃の腰をにぎりしめた。いたいいたい慎ちゃんやめて、むりよ。私にはそういう声がきこえるようだった。
作者の小島信夫は、中国戦線での従軍経験をもとにした小説をいくつも発表している。その中のひとつが本作なのだが、ここで語られているのは自分の三八式歩兵銃に「女」を見出している初年兵の姿なのだ。
小銃は私の女になった。それも年上の女。しみこんだ創、ふくらんだ銃床、まさに年上の女。知らぬ男の手垢がついて光る小銃。
私はこの、イ62377という番号の小銃を交換することをいやがった。それも私には許された。射撃にかけては、同年兵で私の上に出るものがなかったからである。指物師の家に生れ子供のあそびに物尺をもった私の眼は正確だった。的をねらうと、女の唇が物をいいはじめるのだった。
慎ちゃん、あなたはきっと可愛がられるのね。あんたは可愛がられる人。それで大安心なの。私だけでないのね。それで大安心なのよ。あの人にも気がすむの。ひみつだけど、この子、主人のではないようよ。そう思いたいわ。男ならあんたの名前とるの。ほんとうは私こわかったの。年上だと思えなくなりそう。そしたらもうおしまい。あんたに可愛がられるようになったら。わかって。でも私、いつもあんたのそばにいる。そう、あんたの鉄砲になって。
ちょっと検索してみたが、どうやら「小銃」を女性名詞として扱う言語はちらほらあるらしい。掘り下げると大変そうなのでここでは深掘りしないけど。
身体的な密着感や、いざという時に自身を守ってくれる安心感が、恋人や妻を思わせるのだろうか。教場で延々と続く武器整備の時間、班長たちから「優しく愛撫してやれよ〜」などと言われたことは数え切れない。
乱暴に扱ったり傷つけたりすると、銃に嫌われて弾が当たらなくなるという話も聞いたが、これは実際その通りだ。
昇任試験の教練の練習中に、銃をコンクリの地面に落としてしまったことが一度あった。その時に照星(狙いをつける為の先端部分の突起)が歪んだらしく、その後の射撃検定の点数が著しく落ちた経験がある。
まずい、やってしまった、と思った時はもう手遅れで、いくら謝っても許してはくれない。小銃は無神経な私に無言のまま見切りをつけて、永遠に心を閉ざしてしまう。
こうなったら関係の修復は不可能なのだ。僅かにできることは、歪んでしまった弾痕の癖を捉えて、それを込みで自力で射撃をコントロールするのみである(相当難しい)。
そんなわけで、銃を落とすことは誠に重罪なのだ。あらゆる不具合と故障を引き起こす原因になるし、弾が装填されてたら暴発しかねない。教育期間中に銃を落とすと何かしらの形で「反省」をしなくてはならない。
ふと思った。鬼のような教官の激昂は当然のごとく恐ろしいが、女性が無言で見切りをつける時の氷のような静けさもまた、身にしみて恐ろしい。どちらも二度と経験したくないものである。