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・Prologue
感情類別:「楽しい」「嬉しい」「幸せ」
感情影響度:良好
シチュエーション:「旅行」「家族団欒」
二十歳を迎えた年の夏休み。毎年訪れる南伊豆のホテルは相変らず品の良い佇まいで訪問者をもてなしていた。チェックインを済ませる間、ウェルカムドリンクを楽しむ家族連れが今後の行程に胸を躍らせ談笑している。
ロビーから見下ろしたラウンジにはソファーが並び、正面には太平洋が見渡せるオーシャンビューが広がる。正装したスタッフが手際よく淹れるコーヒーの音。鼻を掠める香ばしい香り。穏やかで控え目な館内のBGM。差し込む光。私はこのラウンジが好きだ。
ラウンジにはちょっとしたバルコニーがあり、外に出れば眼下の海からはさざ波が囁く。三日月型のプライベートビーチには何組かの人影がおり、時折、夏を謳歌する声が聴こえる。
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埼玉の実家をまだ暗い早朝に出発し、朝焼けの都心のビル街を抜け、厚木、箱根、十国峠を経て、西に沼津港、東に熱海を見下ろし、冷川の峠の茶屋でとろろ飯を食べるか、「伊豆の踊子」の旧天城トンネルを通過すればようやく下田の街に辿り着く。到着早々、運転に疲れ果てた父は大浴場直行である。
海風の心地よい客室でウトウトしていれば時刻はあっという間に夕食。海の幸を美味しく頂き、地方テレビ局のローカル番組を眺めていれば大体このタイミングでお誘いが掛かる。父は大の風呂好きで、日曜ともなれば朝晩と2度も湯船に浸かるほどだ。満腹のお腹をさすりながら応え、父に続く。
「お前も二十歳になったから、後でラウンジに行くぞ。」
階下への道すがら、施設案内の掲示を見ながら父が言う。
「いつものアイスココアで良いよ」
「・・・バーカ、せっかく二十歳になったんだろ?飲み方くらい知っとけ。」
昔から父は面と向かって話すことはしない。厳密には、道徳的に良くないこと、筋の通らないことを叱る時。人生において大事なことを伝える時にしか目を合わせて会話することはない。それは江戸っ子として産まれた父のある種のルールみたいなもので、父と目を合わせるということは私にとっても重要なシーンであり、緊張を要する場面なのだ。
幼い頃は大浴場に行くとなれば兄も弟も一緒に連れたって行ったものだったが、それぞれに思春期を終えた今では私だけが誘いに応じるようになった。とはいえ、熱い風呂に父ほど長風呂もできず、会話にもならない会話を交わした末、先にロビーで待つことを告げてリタイアするのがお決まりだった。
夜のロビーに人影はなく、受付で事務作業をするホテルマンのボールペンを滑らす音だけが微かに耳をくすぐる。時折エレベーターが到着し、大浴場と客室に向かう宿泊客だけが往来していた。館内は穏やかな夜を迎えている。
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静寂の空間に清らかな音色が響く
音の主はラウンジのピアノ
聴いた事のある けれども 名前のわからない曲
「東京から来てくれるんだよ」
背後から声を掛けられた
白のYシャツに腕まくりをしたお兄さんだった
彼は夜のラウンジのバーテンダー
昼間とは雰囲気の異なるハイカウンターの主
気付くとカウンターでは初老の男性もグラスを傾け聴き入っていた
「すみません、勝手に入っちゃって。」
「いいよいいよ、写真も撮りな?セッション始まるよ。」
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ジントニックを飲みながらバーテンダーと話す男性
客でさえない 迷い込んだ私
そのたった二人の為にトリオは演奏を始めた
「こっちにいたのか」
入口から父が見ていた
演奏に圧倒され すっかり父を忘れていたのだ
「いらっしゃいませ、ソファー席へどうぞ。」
バーテンダーが穏やかな声音でニコニコしながら案内する
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「私はダイキリを。お前は?」
「アイスココアw」
呆れつつも笑って見逃してくれる父
バーテンダーが小気味よく材料をシェーカーに注ぎ、軽快にシェイクを始める。金属を叩く氷。心地よいリズム。大の大人も魅了する魔法の一杯。
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これが有名なダイキリなのかと感心していると、父が一口飲むよう勧める。
あんなにスマートにバーテンダーが作りあげた一杯。父が好きでわざわざ注文した一杯。期待が高まる。
鼻を近づけ香りを確かめる。アルコールのインパクトに乗ってライムの爽やかな香り。しかし、この独特な得も言われぬ感じはなんだろうか・・・。
恐る恐る口を付ける。
「ん゛っ!!」
直感で感じた
私はお酒が好きではない・・・
眉にシワを寄せ、口を真一文字にして唸る私。鼻で笑う父。生クリームがフロートされた濃厚なココアを流し込み、如何にココアが素晴らしいかを再確認する。
「これが大人の味だよ」
ソファーに身体を預けながら父が続ける
「フロリディータのダイキリは美味かったぞ。ヘミングウェイが通った店だよ。何十杯もグラスを並べて、こうザーッとモヒート作るんだ。そんなんで大丈夫かいって思ったらコレが美味いんだよ。」
キャンドルの灯りに照らされながら、懐かしむように、嬉しそうに語る父。
私はこれまでこんな父の顔は見たこともなかったし、そんなにカクテルという物に思い入れがあるとも知らなかった。厳格で仕事に熱心な父。何だかんだで世話焼きな母とは対照的な存在。端的に言えば、私はいつも厳しい父が恐かったのだ。
そんな父がこんなに嬉しそうに想い出を語っている。虚空を見つめる視線の先には、きっとキューバのフロリディータの情景が浮かんでいる。
「キューバの話?」
母と弟だった。
二人は向かいのソファーに並び、シートは我家の所領となった。
「美味かったなぁ、フロリディータ。」
「懐かしいねぇ、ヘミングウェイの席でしょ?」
「アレはあの気候じゃないとダメなんだよ。」
珍しく楽しそうに話す父に、母もヤレヤレといった顔で応える。
会計を済ませた男性が去り際にこちらを見てニッコリとした。
あの人も知っているのだろうか。直観的にそんなことを思った。
「凄いね、Jazzやってるんだ。」
父が応える
「あのピアニスト知ってるよ。どっかで前にも会ってる。」
私や弟の知らない世界を両親は懐かしんでいる。キョトンとしながらメロンソーダを飲む弟も、雰囲気にあてられてご機嫌なのがわかる。今すごく幸せだ。何より、寡黙な父が笑顔で想い出を語る姿が新鮮で目に焼き付く。ずっとこんな時が続くと良いのに。心からそう思った。
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夜の南伊豆は穏やかで
虫の鳴き声と波音が心地よい
いつまでも いつまでも
私はこの夜に身を委ねていた