見出し画像

【歌詞考察】金延幸子「青い魚」―この手からすり抜けていく思い出たちよ


はじめに

 「永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた」。これは三島由紀夫の小説『仮面の告白』の冒頭です。さすがに生まれたときの記憶なんて忘れちゃったよ、なんて人も、幼い日に見た風景の記憶や思い出をいくつか覚えていて、ふとした瞬間に取り出してみては懐かしんでみることがあると思います。時にそういった思い出はきらきらと輝きをもって見えるものです。
 今回考察していくのは、近年映画の挿入歌になって話題になっている金延幸子の名曲「青い魚」。やさしい言葉で語られる、うつくしくノスタルジックな言葉の世界をいっしょに覗いて行きませんか?

「青い魚」について

「青い魚」概要

 「青い魚」は、1972年にURCレコードから発売された金延幸子のファーストアルバム『み空』に収録された楽曲で、作詞作曲は金延幸子、編曲ははっぴいえんどやYMOの活動でも知られる細野晴臣が担当しました。細野はアルバム『み空』のプロデュースにも携わっています。また、レコーディング・メンバーも実に豪華。ベースギターには細野晴臣、エレキギターに鈴木茂(はっぴいえんど)、ドラムに林立夫(ティン・パン・アレー)が参加しています。
 「青い魚」はインディーズの曲でありながら、知る人ぞ知る名曲として愛されてきました。とくに最近では映画『PERFECT DAYS』(監督:ヴィム・ヴェンダース 主演:役所広司 第76回カンヌ国際映画祭最優秀男優賞受賞映画)の挿入歌として起用され、大きな話題を呼びました。正直に言ってしまえば、私も映画でこの曲を知った人間です…

金延幸子、という音楽家

確かめるなんて むだなこと
思いつくままに 気の向くままに
やればいいさ 時に任せ
凡て時が解決してくれる

金延幸子「時にまかせて」

 金延幸子は1948年生まれのフォークシンガーで、「女性シンガーソングライターの草分け」と言われている人物です。1968年に第3回フォークキャンプに参加したのをきっかけに、音楽ユニット「フォークキャンパーズ」に参加。翌年にはフォークグループ「愚」にも参加しますが、1年間で活動が停止。1971年にソロデビューを果たします。その後は細野晴臣、大瀧詠一ら当時の音楽シーンの最先端にいたミュージシャンのバックアップを受け、1972年にファーストアルバム『み空』を発表。音楽評論家ポール・ウィリアムズとの結婚を機に渡米し、日本の音楽シーンから姿を消しますが、1993年にセカンドアルバム『SEIZE FIRE』を引っ提げて復帰を果たします。その後も地道に活動を続けています。
 代表作は「アリス」「時にまかせて」「青い魚」「ほしのでんせつ」など。

「青い魚」考察

失われた海、失われた青い魚

 それでは考察のほうに入っていきましょう!

青い海も 青い魚も
みんな昔手にしたもの
今私のこの手のひらの中を
冷たい風だけが
通りぬけてゆく

金延幸子「青い魚」

 青い海、そしてそこに泳ぐ青い魚。おそらく遠い日に「私」が海に行ったときに触れたもの。ただの「海」や「魚」ではなく、「青い」という修飾語が付いているので、海や魚の青色が強烈に記憶に残っているのでしょう。
 あのとき、「私」の手のひらをくぐり抜けていった海の水、そして魚たち。しかし時はあっという間に過ぎ去り、いま「私」の手を通り抜けていくのは冷たい風ばかり。たしかに昔手にしたはずの海も魚はどこかに消えてしまって、冬の風だけ残っているかのようなさみしさ。青い海で青い魚を見た思い出そのものが薄れていってしまったのかもしれません。

思い出はうつくしいだけじゃない

グロテスクな子供達のむれや
歩道に残った車の足跡
ぼやけ顔の月だけが 昨日残した
足跡をたどってゆく

金延幸子「青い魚」

 先ほどまでうたわれていたのは、青い海と青い魚という綺麗なものでした。しかし二番で登場するのは、どこかショッキングな言葉たち。
 「グロテスクな子供達のむれ」。子どもはよく純粋無垢で無邪気な存在だといわれますが、よくよく見てみると残虐な行為をしていることもあります。たとえば、地面を這うみみずに向かって石を振り上げたり、可憐に咲く花を手でむしったり、集団でひとりの子どもをいじめたり。「私」はそうした子どもたちの残虐性を目の当たりにしたことがあるのでしょう。
 「歩道に残った車の足跡」というのも、どこかおかしい。車道にタイヤの跡が残るならまだしも、足跡が残っているのは歩道。しかも道に足跡が残っているということは、急ブレーキ? 歩道に車が突っ込んだと考えることもできますし、歩道に出ようとした車に危うくぶつかりそうになったとも見ることもできます。どちらにせよ、不自然で事件性すら感じます。
 そして最後に登場したのは「ぼやけ顔の月」。くっきりではなく、暗闇の中にぼうっと浮かんでいる様子は、想像したみるとなんだか怪しい雰囲気を感じますね。小さい子どもならば「おばけが出るかもしれない」と思うかもしれません。
 どれも楽しい思い出やうつくしい記憶ではなく、ショッキングでゾクッとするようなものばかり。そんなものたちが「昨日残した足跡をたどる」ということは、明日になっても尚「私」のあとを追ってくる。つまり、時間が経っても「私」の記憶に残っているということ。
 こういう刺激的な記憶のほうが、かえって脳裏に突き刺さるのかもしれません。青い海や青い魚よりも、深く、深く――

目隠しされたにわとりの意味

にわとりの目隠し
はがれたはずなのに
空を見つめたまま
止まって 止まって
止まってしまった

金延幸子「青い魚」

 さて、曲の最後に登場したのは目隠しをされたにわとり。「どういう意味なの!」と思われるかもしれません。私も、思いました(笑) 何かの慣用句だろうかとネットで調べてみましたが、それらしきものは見つかりませんでした。
 ただ、歌詞を読み解くカギになるような情報が見つかりました。それは、ウサギや猫のような小動物に目隠しをつけると、前後不覚になって動かなくなるというものです。ここでは、にわとりも同様に目隠しをすると動かなくなると仮定しましょう。
 ここでいう「にわとり」が本当のニワトリではなく、「私」の動物化した姿であることは想像に難くありません。この曲が「思い出」をテーマにしていることを踏まえると、目隠しをしたニワトリは世の中のことを何もしらない子どもの「私」。そして目隠しがはがれたにわとりは、成長して様々な知識を備えた「私」の象徴だとみることができます。
 先ほどの歌詞で、「私」はぼやけた月を眺めていました。世間知らずの子どもの「私」は、ぼやけた月を見上げると恐怖感をおぼえて動けなくなってしまいます。そして時は経ち、「私」は成長して様々なものを見聞きしてきました。にもかかわらず、空を見上げてぼやけた月を見ると、動きが止まってしまうのです。なぜでしょうか。
 きっと子どもの頃のようにぼやけた月を見て恐怖を感じたわけではないのでしょう。「私」が月を見て連想したのは、子どもの頃の思い出。幼い頃に月を見て恐怖を覚えた記憶を思い出し、郷愁に囚われている。そのせいで思わず立ち尽くしてしまったのではないでしょうか。
 その思い出がうつくしいものでも、怖いものでも、過ぎ去ったことに違いありません。もう二度と戻ってこない日々の記憶。それはときに人を動けなくさせてしまう。「青い魚」という曲は、誰しもが直面しうる感情をテーマにしていると私は考えます。

なぜ『PERFECT DAYS』の挿入歌に?

 (以下、ネタバレ注意)
 先述の通り、「青い魚」は映画『PERFECT DAYS』の挿入歌に起用されました。なぜこの曲が起用されたのでしょうか。
 『PERFECT DAYS』は、都内でトイレ清掃に従事する中年男 平山のいたって普通な生活を描いた映画です。しかしただ淡々と日々が過ぎていくだけではありません。時折ちらつくのは、トイレ清掃という一般的に忌避されがちな仕事に取り組む平山の過去。そして彼を取り巻くガールズバーのアヤや、豊かな家の娘でありながら息苦しさを感じて家出をするニコ、がんに侵されて元妻に会いにやってきた男といった、様々な人々の心の暗い影です。彼らは各々で暗い過去や現在に苦しめられながら、それでも今日一日を生きていきます。
 「青い魚」の「私」は過去のよくない思い出をかかえ、月を見上げて立ち止まります。そんな「私」の姿は、映画の中の登場人物の姿とリンクするところがあるように思えます。「青い魚」は『PERFECT DAYS』の世界観をより色濃くするのに最適の挿入歌だったのではないでしょうか。

おわりに

 「青い魚」、いかがだったでしょうか。他の曲に比べて余白が多く、その分聴き手の想像にゆだねられるこの曲。今回は私なりの考察を書かせてもらいましたが、みなさんはどのように考えるでしょうか? 自分自身の思い出と比較しながら聴いてみるのもいいかもしれませんね!
 それではまた次回お会いしましょう、ぐーばい!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?