【歌詞考察】岡林信康「私たちの望むものは」ーリソウがハメツに変わるとき
はじめに
ありったけの~夢を~かき集め~♪ いよいよ物語も終盤に入った海賊漫画『ワンピース』。私も大好きで読んでいるのですが、そんな『ワンピース』の物語を奥深いものにしているのが「海軍」の存在です。海軍は「正義」をモットーに海賊の脅威から市民を守ることを任務としていますが、その正義が時に暴走し、逆に市民を傷つけてしまうことも多々あります。正義が悪に変わるのは『ワンピース』に限らず現実の世界でも起こることですよね。
今日はそんな「正義」や「理想」について考えていきましょう。曲は、「フォークの神様」と呼ばれたフォークシンガー 岡林信康の代表作「私たちの望むものは」。プロテストソング隆盛時代の終わりの始まりを告げたこの曲を、私なりに考察してみようと思います!
「私たちの望むものは」について
「私たちの望むものは」概要
「私たちの望むものは」は1970年に日本ビクターより発表されたEP「私たちの望むものは」のA面に収録された楽曲で、作詞・作曲はともに岡林信康が務めました。のちに岡林の2ndアルバム『見るまえに跳べ』(1970)にも収録されました。
この曲が発表される以前、岡林はフォークソング、その中でも社会や政治に抗議をすることに重点を置いた「プロテストソング」の代表的存在となっていましたが、1969年頃からプロテストソングに行き詰まりを感じるようになります。しかしすでに「フォークの神様」と呼ばれていた岡林には依然としてプロテストソングが求められ、苦悩の末岡林は突如消息を絶ち、ギターを放って長野県で肉体労働に従事します。翌年復帰した岡林は、プロテスト・フォークからロックンロールの方向に再出発を図ります。「私たちの望むものは」もロックの要素を強めた楽曲となっています。
岡林信康、という音楽家
岡林信康は1946年に牧師の父親のもとに生まれ、熱心なキリスト教信者として青年期を過ごします。しかし1967年頃に教会に対する不満からキリスト教を「脱出」し、社会主義運動、そしてフォークソングに関心を持つようになります。1968年に日雇い労働者を描いた「山谷ブルース」でデビュー。その後も社会の暗部や新しい時代への希望をうたった一連のプロテストソングを発表し、反戦フォーク全盛期に「フォークの神様」として崇められます。しかし前述の通り、岡林の興味はプロテストソングから次第にロックへと移行。周囲の期待に圧力を感じた岡林は1969年に蒸発。70年に復帰するも、「第3回中津川フォークジャンボリー」で吉田拓郎が鮮烈な登場を果たすと、時代は岡林から吉田に移っていくことになります。フォークの時代の終焉後はロック、演歌の曲を生み出すとともに、日本民謡とロックを折衷させた「エンヤトット」の研究を開始。2021年にアルバムを発表するなど、現在も精力的に活動を行なっています。
代表作は「山谷ブルース」「チューリップのアップリケ」「友よ」「くそくらえ節」「月の夜汽車」など。
「私たちの望むものは」考察
私たちのための世界を!
それでは考察に入っていきましょう!
「私たちの望むものは」という曲は、基本的に「私たちの望むものは……」の文章パターンから成ります。
曲の冒頭では、二つの望むもの「生きる喜び」と「私たちのための社会」が語られます。「生きる喜び」は労働者や社会の底辺で生きる人々を目の当たりにしてきた岡林らしい望みですね。社会の歯車として生きるのではなく、私たちが社会における主導権を握れるような世界にしたい。こうした望みは、現代の私たちが持つ望みでもありますよね。自分らしさを活かしたい、充実した生活を送りたい! うんうん、わかるわかるとうなずきたくなります。
ここの歌詞はいかにも当時の世相を反映したものとなっています。「与えられる」のではなく「奪いとる」。平和や自由を手に入れるためには少なからず強引な手段を取らなければなりません。フランス革命も、アメリカ独立戦争も、そして明治維新も、暴力によって望むものを手に入れたではありませんか。しかし、それでも平和は意識しておきたい。理想は、「あなたを殺す」のではなく「あなたと生き」たい。現実を意識しながらも、理想を目指したい。こうした考えは、岡林だけではなく、ベトナム反戦運動や学生運動を生きた人々の中にもある程度共有されていたのかもしれません。
まるで壇上でメガフォンを構えた指導者が私たちに訴えているような歌詞ですね。不幸から幸せへ、不自由から自由へ。今、跳び立とう! 岡林が歌っている様子を聞いてみると、より一層歌詞に力が入って聞こえます。
「私たち」から「私へ」
指導者は叫び続けます。失敗した時代を繰り返すのではなく、新しい時代に向けて絶えず変わり続けよう。「歴史は繰り返すもの」とはよく言いますが、そうならないようにしようという決意を感じますね。
しかし、この後から次第に歌詞の雰囲気が変わっていきます。
ここでついに「私たち」から「私」に変化します。これまでは全員で立ち向かっていこうという雰囲気だったのが、ここで集団から個人に目標が変わります。集団の中で対立が起きてしまったのか、それとも本来目指すべき方向から集団が逸れてしまったのか。それでも自分が目指そうとした理想は追い続けたい。流れに迎合するのではなく、「私」であり続けたい。
一番と同じ歌詞ですが、一番とは状況が少し変わりました。もはや集団内の全員が私の味方ではありません。それでも私と、私と同じ考えを持つ者とで変革を続けよう。まだ見ぬ幸せに今跳び立とう。依然として私たちの決意は固いですね。
リソウからハメツへ
歌詞はここから、ショッキングな方向へ動き出します。
集団内全員での闘いを諦め、私と賛同者による闘いに切り替わりましたが、それからどのようになったのでしょうか。結果としては、理想が破滅に変わりました。
まず、求めるものが「生きる喜び」から「生きる苦しみ」に変わりました。冒頭の歌詞とは真逆です。どうしてこうなってしまったのでしょう。私の推測としては、私たちが「生きる喜び」を追求することを「堕落」だと認識したのではないかと思います。宗教なんかだとよくあるのですが、運動が大衆に迎合したものになると次第にパフォーマンスに重きが置かれるようになり、本来の目的を見失うことがあります。そして、そんな運動を嫌悪してひたすら厳しく自分を律して活動しようとする派閥が登場します。例を挙げれば、カトリックの堕落を批判したプロテスタントがありますね。
私たちは、きっと「生きる喜び」を堕落と認識し、反対に「生きる苦しみ」を重視することで本懐の達成を目指したのではないでしょうか。
しかし、こうして同じ集団の中ではっきりと対立関係が生じると、その先は内部紛争に発展します。「自分たちの運動に反対する連中は排除しなければならない」という考えのもと、集団内に暴力が生まれます。最初は「あなたと生きよう」と言って全員での運動を目指していたはずが、気が付けば互いに傷つけあうようになり、最早目的の達成ではなく組織の純化にしか目が向かなくなってしまいました。
「幸せ」を追求しながらも、運動は「不幸せ」、そして「殺戮」に向ってしまいました。しかし私たち自身は、自分たちの行動が間違いだとは思いません。これこそが幸せのための行動なのだと信じてやみません。彼らはさらなる運動を推し進めようとします。しかし、その先にあるのはおそらく、より一層の幸せではなく、より一層の破滅なのでしょう。
「私たちの望むものは」の背景
「私たちの望むものは」が書かれた背景には、当時の社会の状況があるのではないかと思います。1960年代、1970年代は変革と挫折の時代でした。1960年代には学生運動や左翼運動が活発化。既存の政治や体制への不満から人々は次々に立ち上がり、組織を為し、改革運動を目指しました。しかしその結果は、組織の壊滅と暴力の蔓延でした。左翼組織内では対立が生じ、血なまぐさい「内ゲバ」に発展しました。学生運動は、時に大学に立てこもっての武力闘争となりましたが、その結果大学入試が延期・中止となり、無関係の学生たちが被害を被ることになりました。
1970年代にこうした内部の暴力は表面化。1970年8月、東京教育大学生リンチ殺人事件。1971年6月、沖縄人民党・民青によるリンチ殺害事件。8月、景品安保共闘による印旛沼事件。12月、山岳ベース事件(連合赤軍)、関西大学構内内ゲバ殺人事件。
そして社会の変革を訴えたフォークソングにおいても、この頃商業主義に対する過剰な敵意から、特定の音楽家を排除しようとする運動が現れ始めます。
人々は平和や幸福を求め、一斉に立ち上がりました。しかし、それがもたらしたのは暴力と対立。結局、社会はほとんど変わりませんでした。「私たちの望むものは」は、一見普通のプロテストソングのように聞こえますが、その中身は、この時代の運動を総括する終止符のようなものだったのです。岡林がプロテスト・フォークに抱いた幻滅。それがこの歌詞に詰め込まれているのではないでしょうか。
おわりに
「私たちの望むものは」、いかがだったでしょうか。現代においても、幸福や自由を求める様々な運動が展開されています。もちろん、そうした運動が活発化するのは良いことです。しかし運動が方向性を見失い、外ではなく内に敵意が向けられるようになったとき、再び惨劇は繰り返されるでしょう。「私たちの望むものはくりかえすことではなく/私たちの望むものはたえず変わってゆくことなのだ」。「望むもの」が手に入る日は来るのでしょうか。
それではまた次回お会いしましょう、ぐーばい!