【歌詞考察】リーガルリリー「リッケンバッカー」ーおんがくよ、もう一度きみを生かせ
はじめに
音楽。
音楽を因数分解すれば、それは単なる音符の連続であり、人間がそれに声をのせたり、ちゃちな言葉をつけたりしているだけでしょう。でも、音楽は人間の心を掴み、揺さぶり、ときには叩きつける奇妙な力を秘めています。魔力と言ってもいいかもしれません。
今回考察するのは、炭酸のような爽やかさと、喉元をえぐる残酷さを同居させるロックバンド、リーガルリリー最大のヒット作「リッケンバッカー」! 私たちが日々聴いている「おんがく」に魅了され、そしておんがくに「ころされた」人間をえがいたナンバーを、私なりに考察していこうと思います!
「リッケンバッカー」とは
「リッケンバッカー」概要
「リッケンバッカー」は、2016年に発売されたリーガルリリーのミニアルバム『the Post』の収録曲で、作詞作曲はたかはしほのかが担当しました。
この曲は2023年現在、リーガルリリーの楽曲の中で最多のMV再生回数を記録しており、バンドの中でも最も知名度の高い楽曲といっていいでしょう。その人気に火を点けたのは、音楽番組「関ジャム 完全燃SHOW」でした。2016年の音楽シーンを振り返る「2016年名曲ベスト10」にて、音楽プロデューサー蔦谷好位置がこの楽曲を紹介し、瞬く間に「リッケンバッカー」は知名度を上げます。
2019年には舞台『365日、36.5℃』とタイアップをしています。
2023年には、アーティストとオーケストラをコラボレーションさせるYoutubeコンテンツ『With ensemble』にて「リッケンバッカー」が取り上げられて話題になりました。
ちなみにタイトルになっている「リッケンバッカー」とは、アメリカの楽器メーカーおよび、メーカーが製作しているエレキギターの名称です。
リーガルリリー、というバンド
リーガルリリーは2014年に結成されたガールズ・ロックバンドです、メンバーはボーカル&ギターのたかはしほのか、ベースの海、ドラムスのゆきやまの三人です。2017年にベースの白石ほのかが脱退し、2018年からゆきやまが加入しています。
たかはしとゆきやまは高校時代からの友人。バンド結成のきっかけはコピーバンドに所属していたたかはしが、メンバーの男子から「おまえの曲はダサいから、やりたくない」と言われバンドを脱退し一人で弾き語りをしていたところ、別の学校に通っていたゆきやまと出会い意気投合したことでした。
2015年に開催されたロックフェスティバル「未確認フェスティバル」で準優勝して頭角を現し、2016年にはカナダでの海外公演成功と初のミニアルバム『the Post』を発表し勢いをつけました。現在も旺盛な活動を続けており、最近では「風をあつめて」のカバーが映画『うみべの女の子』の主題歌に起用されています。
代表曲は「リッケンバッカー」「トランジスタラジオ」「アルケミラ」「1997」「ハナヒカリ」「東京」など。
「リッケンバッカー」考察
おんがくをやめた、きみ
それでは考察に入っていきましょう!
「リッケンバッカー」というタイトルは、先述の通りエレキギターのリッケンバッカーから来ています。タイトルにエレキギターがあるくらいだからロックンロールへの愛で満ちているのかと思いきや、この曲で描かれているのは「おんがくを中途半端にやめた」きみ。
「きみ」というのは一人の人間なのか、それとも音楽をやめた人々の総称なのかはわかりません。とりあえずここでは、一人の「きみ」がいるということにしておきましょう。
「きみ」はロックに興味をもち、いざ始めてみるものの、苦手意識を持ってしまったのか、メンバーと不仲になったのか、はたまた才能がないと思ったのか、挫折してしまいます。「中途半端に」ということは思い通りにいかなかったのでしょう。「食べ残す」という言葉からも、「きみ」の挫折がわかりますね。
同時に音楽をやめた「きみ」が食べ残したものは、彼の愛用のエレキギター「リッケンバッカー」でもあるのでした。
きみの、リッケンバッカー
「きみ」のリッケンバッカー。今はもう使われないリッケンバッカー。
きっと「きみ」がお金を払って買ったのでしょう。ロックを始めた頃はすべてが楽しく、歌ったり、かき鳴らしたりしていたリッケンバッカー。しかし「きみ」は次第に音楽を楽しめなくなっていきます。少しずつ音楽から遠ざかっていく「きみ」の姿をすぐそばで見ていたのは、まぎれもないリッケンバッカーなのでした。
擬人法によって楽器のリッケンバッカーが歌ったり響いたり泣いたりしているように描くことで、「きみ」の心情変化がわかるようになっている秀逸な歌詞ですね。
ころす。ということ
そして「リッケンバッカー」の中でもとくに印象的なのがこのフレーズ。
「ころす。」。おそらくここで音楽がころそうとしているのは、「きみ」でしょう。「ころした。」ではありませんから、「きみ」はまだ生きています。
文字通りにとらえれば、「君」は肉体的に命を奪われることになります。もちろんエレキギターは意志を持ちませんから、ナイフのように攻撃を加えたわけではなく、音楽をやめたことで心が不安定になり自分で命を絶つ、ということでしょう。
もしかしたら死なせることではなく、心を崩すことを精神的に「ころす」と表しているのかもしれません。
しかし、なぜ音楽をやめたことによって自殺したり精神を病んだりすることを「おんがくも人をころす。」と表現したのでしょうか。
音楽は人間によって生み出されるものです。ギターを弾いたり鍵盤を叩いたり声を出したりしなければ生まれません。そしてそれらの行為をやめれば音楽は消えます。言い方を変えれば、人間は音楽を生むこともできるし殺すこともできるのです。つまり人間は音楽を支配している存在ということになります。
人間の好き勝手にされる音楽。まるで豚肉のように作られては消費される音楽を、あえて人間を殺す側に位置づけることで、音楽というものの存在価値を上げようとしているように私は感じます。「音楽を、なめるなよ。」というわけです(もちろん作詞のたかはしさんの真意はわかりませんが)。
きみがおんがくをやめなかったら
音楽をやめた「きみ」。いつ音楽にころされるかわからない「きみ」に語り手は言います。「明日に続く道が今日で終わるならこのまま夜は起きない」。「明日」とは音楽を続けることで見えてくる未来、「夜」とは不安なまま過ごす先の見えない日々のことでしょうか。つまり「今日ここで音楽を諦めたら、このままきみは悩み続けるだけだよ」、というわけです。
語り手は言います。「もしきみが音楽をやめて音楽にころされたら、今日まできみを起こしていた人はきみを起こせなくなるし、きみの音楽がこの世からなくなったら世界だって変わってしまうよ」。
きっと語り手は「きみ」が奏でる音楽がすきなのでしょう。すきだからこそ、なんとしても「きみ」にもう一度リッケンバッカーを持たせたいと思っているのです。
よこしまな、おんがく
音楽をやめた「きみ」。精神が不安定になり、生活も怠惰になっていきます。音楽をやめたことを後悔しているのでしょう、次第に毎日をただ過ごすだけになっていきます。やることもやっていない、「食べ残し」の日々です。
日々をなんとなく過ごす「きみ」に、音楽をやめないよう説く語り手。
「重ねたエゴの形が燃え尽きて星になる」というのがとても詩的な表現ですね。「重ねたエゴ」とは何でしょうか。私が推測するに、これは「きみ」が持っていた欲望、すなわち「音楽をやってお金を稼ぎたい」「音楽でビックになりたい」という邪な欲望だと思います。「きみ」にとって音楽は楽しむものであるよりも、自分が何かを手にするための道具にしか過ぎないのではないか。そう考えると、「おんがくも人をころす。」という擬人法とも関連づけることができます。
語り手は「きみ」に道具や踏み台としてではなく、楽しむもの、向き合うものとして音楽をやってほしいと願っているような気がしてなりません。
おんがくよ、人を生かせ
先ほどは「おんがくも人を殺す」だったのが、ここでは「おんがくよ、人を生かせ」となっています。人間に生殺与奪を握られているとみせかけて、強烈な力で人をもころす音楽。そんな音楽への、語り手の祈りです。
これは同時に、「きみ」への祈りでもあります。「音楽をとりもどして。もう一度リッケンバッカーを響かせてよ。そして、生きて。」。
こうしてここまで「きみ」について歌ってきたこの「リッケンバッカー」という曲は、この歌詞で幕を下ろします。
音楽に魅了され、音楽を捨て、音楽にころされそうになった「君」の姿を見てきた語り手「ぼく」の、音楽に対する強い意思表示。「ぼくはぼくだけのロックンロールをやるんだ。たとえ、ニセモノだとしても」。
「きみ」は音楽を取り戻してくれるでしょう。そして「ぼく」も、自分自身の音楽を目指して今日もエレキギターを握ります。
おわりに
「リッケンバッカー」、いかがだったでしょうか。日本ではよく「言葉には魂が宿る」と言われていますが、きっと言葉だけでなく音楽にも魂が宿るのでしょう。音楽とはなにか、音楽を奏でるとはなにかを再確認させてくれる、力強い歌詞ですね。
それではまた次回お会いしましょう、ぐーばい!