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【歌詞考察】井上陽水「ワカンナイ」―賢治サン、あなたはこんな日本を望んだかい?(前編)
はじめに
「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ……」
1931年(昭和6年)11月3日、岩手県は花巻のとある家の2階で、ひとりの男が手帳に短い文章を書きつけました。男の名前は宮沢賢治。質屋の長男として生まれながら農業と宗教に関心を持ち、仕事の傍らで詩や小説を執筆したこの無名の青年は結核に侵され、1933年に37歳で亡くなります。没後彼が手帳に書いた文章は「雨ニモマケズ」と名づけられ、「理想の人間の姿」を描いた詩として日本中の人々に読まれるようになりました。
それから時が経ちまして1982年、サングラスをかけた奇妙なミュージシャンがとある曲を世に放ちます。井上陽水「ワカンナイ」。なんとその歌詞の中には、あの「雨ニモマケズ」を真っ向から否定するような言葉が並んでいたのです!
今回は井上陽水の問題作「ワカンナイ」の歌詞について、個人的に考察していきたいと思います!
「ワカンナイ」について
「ワカンナイ」概要
「ワカンナイ」は1982年にフォーライフ・レコードより発表されたアルバム『LION&PELICAN』に収録された楽曲で、作詞作曲はともに井上陽水が担当しました。
先述の通り、この楽曲は宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」をふまえた、いわゆるアンサーソングとなっています。しかしアンサーといっても、その内容は現代人の視点から「雨ニモマケズ」に真っ向から疑念をぶつけていくというもの。
「そんなことを言ったって、私たちには伝わらない。わけわかんない」。堂々たる日本文学の規範となっている賢治の詩。戦後民主主義的な価値の中で見いだされた、教育的にも権威がある賢治の詩を捉えて突き落とし、「ワカンナイよ」と言い放つ。
日本人なら誰もが一度は読んだことある「雨ニモマケズ」に異議を唱えたとされるこの曲は陽水の問題作として話題になり、作家の沢木耕太郎やジャーナリストの筑紫哲也も「ワカンナイ」を高く評価しました。
聞きながら、私は軽いショックを受けていた。あの宮沢賢治の詩が、現代のソング・ライターの手にかかると、こんな風に生まれ変わることができるのだ。
井上陽水、という音楽家
探しものは何ですか?
まだまだ探す気ですか?
夢の中へ 夢の中へ
行ってみたいと思いませんか?
井上陽水は1948年生まれのシンガーソングライターで、1969年から現代に至るまで活動している音楽家です。フォークソングブームの中、「傘がない」「人生が二度あれば」などの楽曲で登場、1973年に発表したアルバム『氷の世界』で日本初のLPレコード販売100万枚を達成し、吉田拓郎とならぶミュージシャンとして認められました。その後はニュー・ミュージックの旗手として「リバーサイドホテル」「少年時代」などを発表する一方、「ワインレッドの心」「飾りじゃないのよ涙は」「アジアの純真」など他のアーティストへの楽曲提供を精力的に行ないました。最近でもB'zの稲葉浩志が「ダンスはうまく踊れない」を、LEO IMAIが「東へ西へ」をカバーして話題になりました。
「ワカンナイ」考察
今回の記事では、「前編」「後編」に分け、前編では歌詞の内容を素直に読み解きながらの考察を、後編ではそこからさらに深読みした考察をしていく予定です。それではまず、前編をお楽しみください!
「雨にも風にも負けるな」なんて……
雨にも風にも負けないでね
暑さや寒さに勝ちつづけて
一日すこしのパンとミルクだけで
カヤブキ屋根まで届く
電波を受けながら暮らせるかい?
曲の冒頭では、「雨ニモマケズ」の内容が踏まえられています。
雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ
雪ニモ夏ノ暑ニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
(中略)一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ
(中略)野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ茅ブキノ小屋ニヰテ
風雨に堪えながら、粗食を旨とする質素な暮らしをする姿を描いた「雨ニモマケズ」。国語の先生や偉い人たちはこの詩をすばらしい詩だと言って私たちに読ませますが、果たして同じような生活が現代で可能でしょうか?
雨や風と一言で言っても、現代の風雨は賢治の時代とは違います。地球温暖化、異常気象、巨大台風。いくら「負けるな」と言われたって、無理なものは無理。雨に流される、風に飛ばされる、暑い日には熱中症、雪が降れば家すらつぶれるのです。
食事も同じです。賢治の時代に玄米、味噌、野菜ならば、現代だったらパンとミルクといったところか。栄養バランスも何もありません。健康に生きるためなら賢治が忌避した肉や魚を食べ、ときには脂っこいものやお酒、コーラを摂らないとやってらんない。
日本の隅々にまでテレビやラジオやインターネットが整備され、洪水のように情報が押し寄せる。メディアが知らせるのは不況、高齢化、いじめ、暴力、紛争、戦争。そんな情報のなかで、果たして心を穏やかに暮らすことができるでしょうか?
南に貧しい子供が居る
東に病気の大人が泣く
今すぐそこまで行って夢を与え
未来の事ならなにも
心配するなと言えそうかい?
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
(中略)南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイトイヒ
「雨ニモマケズ」では、様々な場所にいる他者に惜しみない奉仕を行ないます。でも、その様子はどうも現実離れしている。
「南に貧しい子供がいる!」といっても、その子供をどうやって救うのか。自分の生活だけで精一杯なのに、さらに他者にお金を出せっていうのかい? 「南に死にそうな人がいる!」といったって、医者でもない自分に出来るのはせいぜい励ますことくらい。ぜえぜえ息をする病人に、「こわがらなくてもいい」「なにも心配するな」なんてことを軽々しく言えるのかい? 「あなたに私の何がわかるんだ!」と怒鳴られて、ソレデ、オシマイ。
現代人にはワカンナイ
君の言葉は誰にもワカンナイ
君の静かな願いもワカンナイ
望むかたちが決まればつまんない
君の時代が今ではワカンナイ
「君」というのは、おそらく「雨ニモマケズ」を書いた宮沢賢治のことでしょう。病床の宮沢賢治が願いを込めた「雨ニモマケズ」。でもその内容は、現代の私たちからしたら現実離れしていてとても真似できない。っていうか、どうしてそんな苦しい生活をしなきゃならないの? どうしてそこまでして他人を助けなければならないの? お礼をしてもらいたいの? 「ありがとう」って言われたいの? 宮沢賢治の心のうちが私たちにはわかんない。
かといって、「雨ニモマケズ」の内容があまりにも身近な内容だったら、その願いがあまりにも叶えやすいものだったら、なんだかおもしろみがなくなってしまう。どうしてそんな詩を「すばらしい」だなんて言うんだろう。わかんない。
現代でも君は笑えるかい?
日照りの都会を哀れんでも
流れる涙でうるおしても
誰にもほめられもせず 苦にもされず
まわりの人からいつも
デクノボウと呼ばれても笑えるかい?
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
自分には質素な生活を強いながら、世のため人のために動くことを願う賢治。もし彼が現代に生きていたら、ヒートアイランド現象で蒸される都会の暑さを哀れみ、苦しむ人々の姿を見て涙を流すでしょう。そんな状況を改善するために行動を起こすかもしれません。そこまで他人のことを思いやっているのに、投げかけられる言葉は誹謗中傷ばかり。周囲は自分を無視する。軽蔑する。それでもなお、君は他者を思いやれるかい? 笑えるかい?
君の言葉は誰にもワカンナイ
慎み深い願いもワカンナイ ワカンナイ
明日の答えがわかればつまんない
君の時代のことまでワカンナイ
宮沢賢治の言葉も、慎み深い願いも、現代の私たちにはちっとも理解できない。かといって、「雨ニモマケズ」の中に明日の私たちを救う予言めいたことが書いてあったら、それはそれでつまんない。
わかんない。「雨ニモマケズ」の願いは、現代人にはワカンナイ。理解できない。昔の時代の人のことなんか、ワカンナイよ。
ここまでのまとめ
さて、ここまで「ワカンナイ」の歌詞を読み解いてきました。その内容を簡単にまとめると以下の3点になるでしょう。
・「雨ニモマケズ」の世界観は現実離れしてとても現代では通用しない。
・宮沢賢治の考えがよくわからない。
・かといって、詩の内容が身近で簡単すぎるものになるとつまらない。
一般的に「ワカンナイ」は、あまりにも有名で高く評価されている「雨ニモマケズ」の内容を現代の視点から検討し直し堂々と疑問を突きつけた点が評価されているようです。ロバート・キャンベルは「ワカンナイ」が書かれた1982年という時代を踏まえて以下のような考察を行なっています。
日本が高度経済成長を遂げて安定した時期にあたり、ブランド品や海外旅行ブームなどに象徴される消費社会を迎えました。そういう時代にあたって、賢治の言葉が伝わらなくなった当時の状況を陽水さんは伝えている。
(中略)賢治の思想は、皮膚感覚では伝わってこない。リアリティがなくなってしまったのです。60年代に、直接的に戦争や資本主義を批判してボブ・ディランが歌った「戦争の親玉」と同じです。
過去と現代の思想的断絶。二つの間の埋まらない溝について陽水はうたっていると考えられているのです。こうしたテーマは、彼の代表曲「断絶」でもはっきり描かれています。私もこの考えには同意します。
同意しますが、若干の違和感のようなものもあるのです。私はどうも、「ワカンナイ」が単なる賢治批判の歌、または世代間の断絶の歌だと一抹の疑問もなく首を縦に振れない。この曲はまだ奥がありそうだぞ、と思うのです。
ここから先は、次回の「後編」で書きましょう。この先の考察は、私の主観によるところが多いですので、もしかしたら読者のみなさんに受け入れられないかもしれません。ですので、無理に読めとは言いません。ここでお別れする方は、どうもありがとうございました。まだお付き合いいただけるという方は、次回またお会いしましょう。ぐーばい!