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【連載小説】夜は暗い ㉓
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ドアが開くと、甘く強い匂いがした。
10畳以上ありそうな部屋には、床一面に鉢植え花で埋め尽くされていた。
壁に沿って一列に整然と並ぶ胡蝶蘭があり、これが強く匂うのだと思った。
流石は、「教団の後継ぎ候補」だと実感した。
部屋はブラインドが閉じ気味なようで、薄暗かった。
窓の方を向いた男が一人立っていた。彼は緑のローブを羽織っていて、電子タバコを吸いながら、薄く開いてるブラインド越しに窓の外を眺めていた。
「正治さん、タバコはダメだと言ってるだろう。すぐにやめるんだ」と山本が言った。
「いいだろう、タバコぐらい。今吸い始めたところだから、後1分ぐらいで終わる。もうここには薬は一杯ある筈なのに、僕が欲しい薬は誰もくれないんだ。もう気が滅入りそうなんだよ」
と正治が言った。
その時、はじめて彼の顔を正面から見た。
白くブヨブヨの肌で、頬っぺたが大きく下膨れだ。
目は小さくて細い。髪は前が薄くなっていて、短い前髪は茶色くクルンクルンしている。きっと癖毛なんだろう。
髭は生えない体質なのかも知れない。ブヨブヨだが、肌は奇麗だった。
背は170㎝もないだろう。ローブで体形は分からないんだが、恐らく小太りなんじゃないだろうか。
しかし、それにしても分からないのは、彼の年齢だ。
30代とも40代ともとれる。
それに彼の女装姿だ。前にボッチャという薬売りが彼の事を「美魔女」だと言っていた。
どうすればそんな変身ができるのかが、私には分からなかった。
間違いないのは、彼は今相当イラついている。山本も相当だったが、彼のイライラはそれの比ではないだろう。
イラついてる?
薬切れがそんなにツラいのか?
彼は正常ではない。これはチャンスだと思う。
「仕方ないだろう。あなたは今薬を抜く治療中なんだから…兎に角、ここでタバコはやめてくれ」
「まあ、いいじゃないですか。この部屋は禁煙なんですか?あの、私も一本吸わせてもらっていいですか?」と、誰も了承しないままに私はタバコをセットした。
「いや、あなたまで…ここは病院だよ。病室が禁煙じゃない事なんてある訳ないじゃないか!やめてくれ」と、山本はヒステリックな大声で、私に向かって言った。
「おいおい、そこの気味の悪いコーディネートのあんた!ここでタバコを吸ってもいいのは、俺だけなんだぜ。あんたはダメだ」
「ありがとう、僕の今着てる上下が気持ち悪いと気づいてくれて… 僕もそう思ってるんだよ。まあ色々と事情があって、今日はこれしかないんだけどね。ここを出たら、無地のシャツを買うよ。ところで君はタバコを吸って良くて、どうして僕はダメなんだい?」
「それは簡単だよ。ここは僕の部屋だからだ。君はこの部屋を借りてる訳ではないだろう?だからダメだ!」
「でも、君は借りてるだけなんだろう。しかも、この部屋は禁煙だと言うのに、君は良くて僕はダメだという根拠が分からない」
私のタバコが吸えるようになった。
私は一口吸った。
「あああああん!もう!僕はダメだと言っただろう!僕がダメだと言ったらダメなんだよお!」
そう言いながら、正治は私に近づき、私のタバコを機器ごとむしり取り、一杯ある鉢花へと投げつけた。鉢が一つ割れた。
「黒崎さん、何を勝手な事やってるんですか?正治さんに謝って下さい。大体、時間がないですよ。後7分しかない。話すなら急いで話して下さい。そして、とっとと帰ってもらいたい」と山本が言った。
「もう3分も過ぎましたか?それは失礼しました。じゃあ、いくつか質問させてもらいます。君塚正治さん、私は黒崎と言います。新宿でバーを経営してます。何の因果かは分かりませんが、ちょっと質問をさせていただきたいと思ってます」
「ああ、山本から聞いてるので、早く質問してくれ」
「分かりました。あなた、私のいる新宿ではちょっと有名人みたいですね。ゴスロリの衣装で、グリーン・クイーンと呼ばれているそうで…」
「ええ、単なる趣味ですが、何か問題でも?」
「グリーン・クイーン」と聞いて、彼の態度は一変した。急に気品を取り戻したのか?
「それでその格好で、新宿へ薬を買いに来てたんですよね?」
「ええ、オーバードーズの件はもう既に警察には話してますし、それは取引できると聞いてますが…」
「そうなんですか…私はそんな事は興味がなくて…あなたがグリーン・クイーンの格好をするようになったのはいつからですか?」
「あれはそう…二年ぐらい前かなあ…由佳里さんと結婚してすぐぐらいです」
「結婚した後で、女装ですか?」
由佳里さん…
そう言えば、彼は山本由佳里と比べて、だいぶ年下だろう…
それにしても妻を「さん」づけで呼ぶ?
しかも、口調が何となく嫌そうだ…彼は由佳里を嫌っているのか?
まあそうだな。出ないと、離婚したりしないよな…
「さっき言った筈です。あれは単に趣味です。女装が趣味で悪いですか?」
「いや、そんな事はないです。でも、あなたのゴスロリをどうして義理の娘である有紗さんは真似するようになったんでしょう?あなたが誘ったんですか?」
「ええ?」
「私は有紗さんもゴスロリの格好をして新宿を徘徊していた事を知ってます。彼女は界隈でAリサと呼ばれていたようだ。そして、あなたが薬を買っていた売人からAリサが買うようになった。二人分ね。それも分かってるんです。」
「…」
「黙るのは勝手ですが、証言してくれる人もいるんですよ。まあいいです。それで有紗さんは今はどこに?」
「分かりません…僕はもう別居してるので…」
「そうですか…こないだ圭太君があなたの家を訪ねた時は、それを聞きに行ったんじゃないですか?」
「いや、そんな事はないです…」
「彼は何故、ゴスロリの衣装を着てたんですか?」
「それは分かりません…」
正治はさっきまでの威勢の良さはなくなりつつあった。声はどんどん小さくなっていってる。
「そうですか?私は圭太君から色々と聞いてますが、ご自分で話しませんか?」
「話す事はありません」
「有紗さんも圭太君もあなたと一緒にゴスロリの格好をすると、食べたいものを食べたいだけ食べさせてくれたと聞きました。それは本当ですか?」
「それは…」
「ゴスロリのコスチュームであなたと一緒に添い寝するのが条件だったそうで… あなた、圭太君を犯したがったようですね…」
「そんな事はない!山本さん、こいつを外に出してくれ!」
ヤツがキレた!
シメた、もらいだ!
その筈だ…
「黒崎さん、これ以上は危険です。名誉棄損で訴えますよ!」
「分かりました。じゃあ最後にもう一つだけ…あなた、有紗さんがあなたの箱根湯本の家に訪ねてきた時に、小田原のビジネスホテルへ連れて行きましたね?」
カマをかけた。引っ掛かってくれればよいが…
「知りません…」
「あなた達を湯本の駅前から乗せたタクシーの運転手から証言が取れてるんですけどね。酔っぱらったみたいになってるダボついた黒いパーカーにデニムの女の子と、それを介護しているゴスロリの女の子を…」
「…それはおかしいな…」
「おかしいって何ですか?」
「バレる訳がない!バレる訳がない!バレる訳がないんだよう!何で?何で?何が起きた?」
「俺は、あの日、家に帰るために、あの気持ち悪いパーカーとズボンを履いたんだぜ。何か安っぽいヤツでさあ。あんなの生まれて初めて身につけた。おまけにだよ、有紗のスニーカーは俺の足には合わないんだ。俺は足は小さい方なんだが、ヤツの足はもう一つ小さくて…あの合わないスニーカーで、俺は…あのホテルから歩いて家まで帰った…朝早すぎて、駅前にもタクシーが停まってなかったから…必死で歩いたよ。足が痛くなって、たくさん歩いて、ヘトヘトになって…でも、休まずに歩き続けて…やっと家に辿り着いた。そんなに苦労したのに、何で、あんたは易々と知ってたように言うんだ!」
ついに彼の感情が決壊した。
「正治さん、黙って!もう10分は過ぎました。面会はここまでにしてください」
「山本さん、うるさいなあ。僕が今しゃべってるんだよ。黙っててくれないかなあ。ああ、そうさ。僕があの子をホテルに連れて行ったね。でも、それが何が悪いのさ?」
「何で連れて行ったんですか?」
「それは簡単さ。あの子が薬を飲みすぎたから…それで動かなくなってしまって…動かないんじゃ、僕は何も楽しくないから…」
「あなたは有紗ちゃんと寝ていた?」
「うん…」
「どうして、義理の娘をあなたは犯したんですか?」
「僕はね、依存症なんだ。穴があれば何にでも入れたがる。で、何回も何回も気が済むまでやるんだ。でもね、結婚した由佳里さんは僕と一緒に寝てくれなかった。ただの一回もだぜ…悶々とするよな。俺は、あの女の気が強そうなところが気に入ってプロポーズしたのに、俺をぶつ事ですらしねえんだ。それで、そんな事を彼女に言うと「キモい」と言われて…あの女と無茶苦茶やりたかったのに…手さえ握らせてくれなくて…」
「それで有紗さんに手を出したんですか?」
「ああ、あの家の漆原って家政婦がいるだろう。あの人は俺と由佳里さんが結婚する前から由佳里さんの家で家政婦をしてて、漆原が俺に言ったんだ。「有紗ちゃんも圭太君も美味しいものをお腹いっぱい食べさせたら、すぐに言いなりになりますよ」って。俺はそんな事あるかよと思ったんだが、本当だった。ちょろいもんだった。」
「それで、あなたは有紗さんもオーバードーズに仕立て上げた」
「そう、お互いイッてたら、気持ちの良さが格段になるんでね」
「もういいです、正治さん…皆さん、ここでの彼の話は一切聞かなかった事に…」と山本が言った。
「残念ながら、それは無理ですな。全部録画させていただきました」
「山本、何で聞かなかった事にしろなんて言うんだよ!俺は俺がやった事を正直にしゃべっただけだろう!」
私は部屋を出た。
ずっと黙っていた島野がついてきた。
刑事たちは部屋に残った。
私は病室を出て、すぐにエレベーターに乗った。
早くあの部屋の甘い匂いから解放されたかった。
しかし、正治だけにコーディーネートを茶化されたのが悔しかった。
早くシャツを買おうと思った。