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【短編小説|青春】自転車で派手に転んだ夜の事
「内村、明日も来るの?」
「明日は部活があるから来ねえよ」
「じゃあ来週だな。またな」
「ああ、澤口、またな」
僕は内村舜。高二だ。
今日は二月の三週目の週末で、これから始まる受験勉強に備えて、学校を終えてから、塾の無料講座を受けていた。
今は夜7時になるところで、夜はとっくに始まっていて、おまけに今週の初めから日本列島を覆っている今シーズン最強の寒波のせいで、駅前は冷凍庫の中のように冷え切っていて、心底寒い。
こんな夜には、普段なら飲みに来る客でごった返す駅前商店街の通りも閑散としており、自転車はすいすいと走らせる事ができ、いつもなら沢山の歩行者と自転車がいる上に、車まで渡ろうとしてくる踏切を易々と超えられた。
スムーズなのはありがたいのだが、とにかく今日は寒い。
学ランの上にダッフルコートを着て、手袋をはめ、大きなマフラーを口元を塞ぐように大袈裟に巻いているのだが、やっぱり自転車に乗っていると寒い。
というか、冷たい。いや、痛い。
強烈な寒風は容赦なく顔を刺してくる。
だから、悲しくないのに涙が出てくるし、その性で鼻水まで垂れそうになる。
鼻水が垂れると、マフラーをダメにしてしまうので、僕は鼻水が出ないように鼻を吸いながら、それでもできる限り速いスピードで走った。
後、3分。
何故急ぐ?
それは簡単だ。
赤い自転車の彼女とすれ違うためだ。
この無料講座を受けだして、僕は帰り道に必ずと言っていいほどの高い確率で、その赤い自転車の彼女とすれ違っていた。
最初は何も気づかなかった。
学校を終えてから、塾で90分、一コマの講義を受ける。
終わると大体7時ぐらいになる。
そうなると僕は疲れるし、むちゃくちゃ腹が減る。
早く帰って、普段着に着替え、温かいリビングで晩飯を食いたい。
それだけを考え、と言うか願い、僕は自転車を飛ばしていた。
駅前からうちに帰る時に、大きな通りを一つ渡る。
その通りを渡る手前に、斜めに僕は来た道へと進んでいく道がある。
その斜めの道を走ってくるのが、赤い自転車だ。
彼女は多分、僕よりだいぶ年上だ。
と言っても、具体的に言えば、20を二つ三つ超えたぐらいだと思う。
それよりなにより、ムッチャ美人で、すらっとしていて、足が長い。
髪はライトブラウンで長くカールしていて、いつもポニーテールにまとめている。
ムッチャ美人と言ったが、これは例えようがない。
僕が、自分の人生史上初の「実物を見た事がある美人」だからだ。
芸能人でもモデルでもなく、僕の住む街で出会った、実体のあるものスゴイ美人の女性。
それが彼女だ。
彼女が着てるものは、毎回変わるので、目の悪い僕には最初は識別できない。
ただ、少しずつ近づいて来る時に、自転車の色が赤で、明るい茶髪のポニーテールであれば、それは彼女だ。
その彼女と出会う交差点まではあと少し。
でも、時間は今日は少々押しており、予断を許さない。
だから僕は、この寒風吹きすさぶ中で、自転車で激走している。
交差点が見えた。但し、まだ遠い。
信号は赤で、斜めから入ってくる道の信号もまだ赤だ。
通りの向こうを目を凝らして確認したが、まだ自転車は見えてない。
間に合いそうだ…
斜めから入ってくる方が先に青になる。
その後、僕が渡る信号が青になるんだが、僕はいつも自分が渡るために信号待ちをしている時に、斜めから走ってくる彼女とすれ違う。
だから、まだ信号が赤であるなら安心だし、ここで青になったとしても、この道沿いにいる限り、僕は彼女と必ずすれ違える。
なら、そんなに急ぐ必要などないのではないか?
そう言うなって。とにかく確実に、早く彼女とすれ違いたいんだ。
何で、そんなにすれ違いたいのか?
それも答えるのは簡単だ。
彼女とすれ違う時、彼女のなびく髪からスゲえいい匂いがするからだ。
本当は声をかけて、出来れば話をしてみたいけど、今の僕にはそんな勇気はない。
だから、今のところは彼女のいい匂いを嗅ぐ事で収まりをつけている。
僕の方の信号が青になった。
斜めから来る道からは彼女は来なかった。
もうすぐ信号が変わる。
次の青までは、彼女と出くわす事はない。
交差点まではもう少し。
僕は自転車を漕ぐ足を緩めようとした。
すると、舗道の左側にあるパーキングから車が出てきた。運転手は舗道の状況をよく見ていなかった。
いきなりだったので、僕は大きく膨らんで車を避けた。
そこに対向する自転車が突っ込んできた。
赤い自転車だ!
これは避け切れなかった。
でも、このままだと正面衝突になるので、僕は急ブレーキをかけた。
前輪はロックし、僕は前に飛んだ。
道路には背中から落ちた。
空中で一回転したようだ。
そんなの感じてる暇はなかった。
気がついたら、僕は路上に寝そべり、目の前には夜空が広がっていて、丁度北極星がよく見えた。
そして、すぐに星を見てる僕の視界一杯に女の人の顔が大写しで飛び込んできた。
「うわあ!」
「アンタ、大丈夫け?怪我しとらん?救急車呼ぶ?」
そう話しかけてきたのは、正にあの赤い自転車の彼女だった。
「いや、僕、大丈夫です!」
そう言って、僕はすぐに立ち上がった。
左から入ってきた自動車の運転手である若いお母さんも車を路肩に停め、近づいてきた。
「頭打ってたら大変だから、救急車でえ、病院行った方がいいっぺよ。そうすんべ?」
赤い自転車の女性は訛りがすごかった。
でも、本当に美人だ。
「119に電話しますう?」
若いお母さんも心配そうに言った。
「いや、マジで平気です!ありがとうございます!」
そう言って、僕は転がっていた自分の自転車に跨り、信号が青になったので、急いで大通りを渡った。
通りを超えた後、さっきいた場所の方へ振り返ると、赤い自転車の女性と若いお母さんは、短く話した後で分かれた。
赤い自転車は、駅前の方へと向かい、車は信号待ちへ戻った。
僕は自分の家を目指して、自転車を急がせた。
何だか、彼女の訛りが嬉しかった。
了