【連載小説】夜は暗い ⑩
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島野瑤子が事前に連絡を入れてたようで、正面のエントランスはすんなり通り、エレベーターに乗って、27階で降りた。
私たちは明るい廊下を少しだけ西に歩き、角から三つ目のドアの前で瑤子はインターフォンのボタンを押した。
ドアがすぐに開き、女性が顔を出した。
ん?見た事がある人だ… 誰だったか?
「島野さん、圭太から聞いております。圭太の母です。どうぞお入りください」
「じゃあ失礼します。ああ、一緒にいるのは黒崎さんです。黒崎さんが昨日ケータ君と最初に会ったんです」
「そうでしたか…では、ご一緒にどうぞ」
すぐにリビングに通されるかと思ったが、ドアを開けると母と名乗る女性は「ちょっと汚くしておりますので、暫くここでお待ちください」と言い、私たちをドアの前で待たせ、自分は中へ入っていった。彼女はドアをきちんと閉めなかったために、細い隙間から彼女が透明な酒が入った高そうなデキャンタとグラスを手に持ち、向こうへと消えるのが見えた。
彼女は布巾を持ち、すぐに戻ってきた。そしてローテーブルをサッと拭いた。そして、布巾を向こうへ投げ、ドアを開けた。
「お待たせしました。どうぞ」
私たちは中に入った。
広いリビングアンドダイニングルームだった。
畳で言うと20畳ぐらいあるだろうか?
縦長の部屋の左側は、全面大窓になっていて、新宿の方を向いてるらしく、割と大きめに副都心の高層ビル群が見える。
奥の壁には80インチはありそうなTVがかかっており、それに向き合うように、キャメル色の布のデカいカウチがL字に横たわっている。
反対の奥を見ると、猫足のダイニングテーブルがあり、その上には布巾が無事に着地していた。
彼女はL字の狭い方に腰掛けたので、必然的に私たちは長い辺の方へ座った。
「それで、お出でになった用向きをお聞きしましょう」と、女性が言った。彼女はお茶一杯、水一杯出す気はなさそうだった。
「昨夜の事をケータ君にはお母さまに話しておくようにとお願いしてあったんですが、ケータ君からは何もお聞きになられてませんでしょうか?」と島野瑤子が言った。基本的にこの場は島野がしゃべる。私は訊いてるだけ。そういう取り決めにしてあった。
「ええ、圭太からは凡その事は聞いておりますが、その前にそちら様からまずは経緯をお聞きしたくって…お手数ですが、お願いできます?」
この女、言葉遣いは丁寧だが、いちいち鼻につく言い方をする。
気の強さは、島野瑤子といい勝負をするんじゃないか?
「昨夜、私のオフィスにケータ君が来ました。お姉さんが咳止め薬を買っていたところを探すために新宿に来たと言ってました。お姉さんの有紗さんは二週間前に行方不明になったそうで、ケータ君は有紗さんを探す手がかりを見つけるために、薬を売ってる人間を探そうと思ったんだと思います。ここでちょっと質問させてもらっていいですか?」
私は取り決めを破って話し始めた。このまま島野に任せてたら、いつ衝突するか分かったもんじゃない。島野は私を睨んでいたが、ここは任せるという表情をした。
「何でしょう?」
この女の息が酒臭い。
ウォッカか、焼酎の匂いだが、あのデキャンタなら多分ウォッカだろう…いや、ジンか?テキーラ?
とにかく強い酒だと思う。
「娘さんは、本当に行方不明になられたと?」
「ええ、二週間前に突然いなくなってしまいました」
「娘さんの名前は?」
「君塚有紗です」
「失礼ですが、あなたのお名前は?」
「君塚由佳里です。仕事は旧姓でやってますけど…」
「ビジネスネームは?」
「山本です。山本由佳里。これでも、欧米では名の知れたピアニストなのよ。あなた、私をご存じ?」
「生憎、私はクラシックはからきしでして…」
「そう、残念だわ。私もまだまだという事かしら…」
山本由佳里…
時流に疎い私でも流石に知っていた。
十数年前には、散々TVで見た顔だ。しかも、それは彼女の本業のピアノの演奏は全く関係ない恋愛スキャンダルでワイドショーに出ずっぱりだった時期があった。
当時、彼女はアメリカの音楽院を首席で卒業し、ボストンのオーケストラに招かれてた頃だ。
凱旋公演で日本を訪れた時に、過ちが始まった。
彼女のファンだと言う大物俳優の藤沢雅也と彼女は恋に落ちた。二人の関係は数年間にわたって続き、やがて、由佳里は、長女を生み、三年後に長男を生んだ。しかし、それは許されない恋だった。藤沢にはすでに別に妻子がいて、所謂不倫だったからである。
その問題は当時社会問題化され、大いに世間を賑わせたのだが、長男が生まれた一年後のある日、いきなり決着した。藤沢が自殺したからである。
その後、彼女はボストンへ帰り、専属ピアニストに復帰して、問題は幕引きとなった。
しかし、彼女はそれでは終わらなかった。
藤沢と別れた後も、彼女は恋多き乙女を地で行く生活を続けたのである。
彼女はボストンに暮らしながらも、日本人の男性と付き合い続けた。
それも相手は社会的に目立つ存在の人ばかりだった。
そしてその中にはまたも不倫が含まれたりした事もあって、しょっちゅう物議を醸しだし、世情に話題を振りまいていた。
そうした彼女の素行の悪さから、彼女は所属していたオーケストラを追い出されてしまい、色々の伝手を辿って、今は日本で活動しているという事だ。
TVで見ていた時の印象は、流石恋多き女性らしく、いつも顔色はよく肌が滑らかで美しいというものだった。しかし、目の前にいる彼女は顔色が悪く、肌は荒れ、生気がない表情だ。だから最初彼女を見ても、山本由佳里だとは分からなかったのだ。
酒を飲んでいるのに顔色が悪い?依存症なのか?
君塚?何番目かの夫の苗字を名乗っているという事か?
「そんな事はないですよ。あなたは有名人だ。でも、日本で暮らしているとは思ってなかったな。いつからここにお住まいですか?」
「さあ?私細かい事は覚えておりませんの。今の夫が買った部屋ですわ」
「今のご主人?山本さん、再婚なさってるのですか?」
「ええ、極秘にね。マスコミにバレないようにするのが大変なの。もうレポーターに追っかけ回されるのはコリゴリよ。だから、あなた達も黙っててね」
「分かりました。因みに旦那さんのお名前とお仕事を教えていただけますか?」
「言わない?」
「守ります」
君塚…いやな予感しかしない…
「君塚正道の息子である正治」
「聖なる光教団の教祖の息子?」
「そうなるわね…実はもう別れてるんだけどね」
「えっ?いつ別れたんですか?」
「さあいつかしら?だいぶ前よ。私娘と息子がいるじゃない。面倒臭いのよ。いちいち苗字を変えるのって…学校への変更手続きが大変で…だから、変えずに君塚のままでいるの」
「そうでしたか…」
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