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【連載小説】夜は暗い ⑲


普通に目が覚めた。
昨夜は、9時過ぎに部屋に戻ってきた。
すぐに風呂に湯を溜めて入り、10時にはベッドに入って、秒で寝た。
そして、朝起きた。

時刻は7時半を過ぎたところで、カーテンの隙間から差し込む朝の光は、まだ夏の強さを保っており、今日も暑くなりそうだと感じさせる。
こんな時間に爽やか気分で起きるなんて、私にとっては全く以て珍しい事だ。しかも朝に…

夜10時に寝て、朝7時過ぎに自然に起きる。
こんな事は刑事時代でもした事がないし、夜に生きるこのビルで暮らし出してからは皆無だ。

どうしよう…
私の中にマニュアルがない。だからどうして良いかが分からない。

ああ、そうか…

私は湯を沸かしに行く事にした。
目覚めたのがいつであれ、私の一日はコーヒーを飲む事から始まる。
思い出せてよかった。
そうでなければ、私はいつまでも所在無げにしているままだっただろう。


コーヒーをサッと飲み、シャワーを浴びて、髭を剃った。
これで今日を生きる活力が湧いてきた。


腹が減った。


こうなれば普通の朝食を食べよう、そう思った。



インターフォンが鳴った。
誰だ、こんな時間に訪ねてくるヤツは?
いや、それはおかしい。朝は早いが、今は真夜中ではない。訪ねてくる人間がいても不思議ではない時間だ。
私はカメラの画像を見た。

島野だった。




私たちは、駅の方へと少し歩き、タバコが吸える三階建ての大きな純喫茶に入った。
島野は卵サンドのモーニングセット、私はトーストとサラダのモーニングを取った。
飲み物は、勿論私はホットコーヒーで、島野はアイスミルクティを頼んだ。

「もうすっかり、体調は良さそうね」
「ああ、たっぷり寝たからね。後、昨日電車で飲んだアルコール度が極端に低いジュースみたいなヤツが良かったのかもしれんな」
「よっぽどキツイ車に乗ったみたいね」
「ああ、何度死んだと思ったか分からんぐらいだよ」
「そうなんだあ」
「それで、用件は何だ?用がないのに、君がこんなに朝早くから僕を訪ねる訳がない」
「あらバレてたの?そうだよねえ。じゃあ訊いていい?」
「何だ?」
「昨日、ずっと気になってたんだけど、黒さんってあの犯人がケータ君でも、全然驚かなかったよね。あれどうして?」
「何だそんな事か… 簡単だよ。僕たちはケータ君を探しにあそこまで行ったんだろう?で、二人組を見つけた。だったらどちらかがケータ君の筈だろう?」
「まあそうなんだけど… 次の質問、黒さんは、何でナイフで刺された方の人に関心を寄せなかったの?傷口を見て、軽いのを確認した後は、水から身体を引き上げただけじゃない。あの人に何も話しかけないし、質問もしなかった。あれは何で?」
「知って得する事が何もないからだよ。知らぬが仏って言うだろう。ケータ君がナイフで刺した時点で… 厳密に言うと刺してないんだけどね。ただナイフを横に振って、腹をサアーって切ってしまっただけだ。少なくとも傷はそんな傷だった。だから腹の肉は切られてないんじゃないかな。皮膚から1、2㎝ほど脂肪を割いたぐらいだよ。ああ、横道逸れた。まあ、ナイフで人を切りつけた時点で、僕にできる事は何もない。後は警察に任せるだけだ。だったら、出来るだけ知ってる事は少ない方がいい。事情聴取の時間を短くできるからね」
「なるほど、そう言う訳だったのね…」
島野は妙に感心したように頷きながら、卵サンドの最後の一切れを食べた。

私のスマホが鳴った。

04から始まる知らない番号…普段なら出ない番号だが、私は出た。

「黒崎さんですか?私、神奈川県警の奥平です」
「どうしました?」
「助けてもらえんですか?」
「助ける?私が?どうやって?」
「いや、昨日身柄を押さえた君塚圭太君ですが、一言も話してくれんのです。それで、どうすればいい?と訊いたところ、黒崎さんなら話すと言ってまして…仕事があるのは分かってますが、何とか、これからこちらまで出向いていただけないでしょうか?」

ええ?またも小田原へ?
全く気乗りがしない…

「後、被害者の身元が割れましてね。驚かんで下さい。あの深緑色のコスチュームの美魔女は、君塚正治だったのです」
「ああ、そうなんですか…」
「ありゃ?あまり驚いてないようですなあ…」
「いや事件となってしまったので、なるべく距離を置きたいだけです」
「ああなるほど… 厄介事ですからねえ… ですが、何とか今日来てもらいたいんですよ。お願いできませんか?」
「分かりました。で、交通費は出してもらえますよね?」
「ああ結構です」
「ロマンスカーに乗りますので、特急代も出して下さいね」
「かしこまりました」

電話を切った。

島野に「君も行くか?」と尋ねると、「私は行けない。今日は午後から別件があるから」と言った。
「そうか、分かった」そう言って、私たちは店を出て、すぐに島野と別れた。
私は一人で自分のビルを目指して歩いた。
歩きながら、「私には別件がない」事に気が付いた。
別件がない?ならば、行って協力するのが筋だろう。
腑に落ちた。スッキリした気になった。


新宿通りを渡ると、横断歩道の前で停まっている中古の黒いセンチュリーがホーンを鳴らした。
運転席を見ると、金次郎君だった。
私が渡り切ると、センチュリーはハザードを出して、路肩に停まった。
助手席のウィンドウがスルスルスルと開いた。

「昨夜は悪かったねえ。どうしたんだい、この車は?」
「さっき、知り合いんとこ行って、俺のGT-Rと交換してきたんですよ」
「ええ?あの高そうなGT-Rとこいつを交換?でも、これって、中古だろう?」
「いや、俺もアラサーっすからねえ。いつまでもあんなションベン臭えガキのような車には乗ってられねえんすよ。これからはショーファーのように運転するんす」
「ショーファー?できるのかね?」
「大丈夫です。安全運転が一番すよ。じゃあ」そう言って、彼はウィンドウを閉めた。そして、ウィンカーを右に出し、そろりと車を出して走っていった。

ションベン臭え?

かけたのか?

謎だ…

お陰で、折角さっき腑に落ちてスッキリした気分だったのに、ちょっと薄れてしまった。
何となく残念だ…

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