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【連載小説】夜は暗い ㉙ (ラス前)
■
山本由佳里の顔は青白く、身体は固まったままだった。
「ショックだったでしょうね?」
「まあそうねえ…でも、こんな事になっても… 私はめげてられないしねえ… 」
「ところで、先程あれだけこちらのコーヒーの事を話してしまったせいで、コーヒーをいただければと思うのですが、淹れていただけませんでしょうか?」
「あら、残念ね。私はコーヒーを淹れたりできないの。良ければお酒はどう?こないだお出ししたウィスキーでも?そう言えば、私も飲みたいわあ」
「じゃあ一杯だけいただきましょうか?島野さんも飲みますよね?」
「勿論です。是非、お願いします」
「分かりました。すぐに用意致します。私、台所の事は何もできないんだけど、唯一、お酒の用意だけはできるのよ。ちょっとお待ちになって下さいね?」
「お手間を取らせます。宜しくお願い致します」
「いいえ、大丈夫よ。何しろ一番飲みたいのが私だから… 」
そう言って、山本由佳里は立ち上がり、キッチンへと向かった。
「ねえ黒さん、どういう事?もう新宿帰って、店で飲めばいいじゃん?帰ろうよ… 」
「いや、まだだな。もう少しだ」
「もう少し?」
「まあ見てなって… 」
山本由佳里が戻ってきた。
大きな銀のトレイに前も見たデキャンタと氷のバゲット、そしてグラスが三つ載っていた。
彼女は、トレイを私たちの前に置いて、自分のグラスを取った。
そして、トレイのデキャンタを取り、自分のグラスに注ぎ、一口飲んだ。
「ああ、美味しい」
「あれ、今日は自分用のではないんですか?」と、私が由佳里に訊いた。
「ええ?ああ、今日は一緒のを飲むわ。今日は日本のウィスキーを飲みたい気分なの」
「因みにいつもは何を飲んでおられるんですか?」
「まあ色々ね。スコッチだったり、テネシーだったり、バーボンだったり…ブランデーの場合もあるし…私、凝り性なんで、気にいると、暫く同じものを飲み続ける癖があるの。だから、自分用のデキャンタを用意してて… 」
「今は、ご自分のデキャンタは?」
「寝室に置いてあります」
「何が入ってるんですか?」
「その質問は重要?」
「いや、興味本位です」
「だったら、秘密にしておくわ。それでお二人は飲まないの?」
「いや、いただきます」
私たちはそれぞれのグラスにウィスキーを注ぎ、島野はストレートで一気に飲み干し、私は氷を入れて一口飲んだ。
癖のない丸い味のウィスキーだ。 美味い。
スムースに喉を通過していき、胃に辿りついた時点で、腹の中の温度が急に上がる。
これは何杯でも飲みたくなる味だ。
「サントリーの知多よ」
「知多?山崎は飲んだ事がありますが、知多は飲んだ事なかったなあ。これは美味いですね」
「ありがとう」
「ありがとう?」
「知多半島は私の故郷だから… 」
「そうなんですね… 」
「私、田舎者なの… 」
彼女はまた自分のグラスに酒を注ぎ、一口飲み、そして黙った。
嫌な間が開いた。
「あの、訊いてもいいですか?」
「私に?まだ、何か訊く事があるの?」
「ありますね。是非お聞きしたい事が… 」
「じゃあ言ってみて。答えられるようなら答えます」
「なるほど… 」
私は自分のグラスの酒を飲み干し、自分のグラスに新しい酒を作った。島野も自分のグラスにウィスキーを注いだ。
「あなた、全部分かってましたよね?」
「えっ?何の事?」
「さっき私が言った漆原さんの事や、君塚正治さんの事、全部です」
「そんな事ないわ。でも何でそう思うの?」
「山本修作さんをご存じですよね」
「山本修作?私と同じ山本姓だから、私の親戚か何か?どっちにしても私は知らないけど…」
「知らない訳ないと思いますけどね。山本修作さんは、君塚正治氏の顧問弁護士です。私にはそう言って紹介を受けましたが、多分ですが教団の顧問弁護士もやってるんじゃないかと思ってます」
「そうなの?いずれにせよ、私は会った事がないので、何とも言えませんわ」
「さっきの漆原さん同様、あなたも直接的には何も手を出してないでしょうから、安心してるんでしょうけどね。私はもう調べてありますよ。山本修作さんはあなたの従弟ですよね。歳は三つ下」
「ああ、ああ、あの修ちゃんの事?フルネームで言われるから、思い出せませんでした。修ちゃんなら知ってます。でも、地元を離れてから久しく会ってないわ… 」
「そうですかねえ?まあいいです。さっきの漆原さんの時と同様、ここからは私が読み取ったストーリーを話します。聞いてもらえますか?」
「いいわよ、話してみて。その前にもう一杯ずつ、飲みましょう」
「いいですね」
私たちは、グラスを掲げ、乾杯の仕草をした。そして、酒を飲み干し、新しい酒を注いだ。
「多分、偶然が重なっただけだと思いますが、あなたは帰国後、日本での活動場所はおろか、信頼できる人間もいない中で、唯一子供の頃から自分が言う事を聞く山本修作さんを頼ったんだと思ってます。そして、彼の手引きで、どこかのパーティか何かで、君塚正治氏と出会う事になります。そして、その場に山本修作も勿論いた。そこで今回の計画の輪郭がおぼろげながら生まれてきた。あなたは、正治氏の性癖を逆用し、彼と結婚にこぎつけます。そして、その結婚を機に、山本修作は教団の顧問弁護士の席を獲得できたんだと思ってます。ここまでは完全に私の推論ですが、時系列に調べていけば、あまりブレてないという証拠は集まるだろうと思ってます。どう思いますか?」
「ブレてないというか、全くの作り話としてしか聞こえてこないわ」
「まあいいです。続けます。あなたも修作も、正治氏に近づいた目的はお金でしょう。それと日本での立場か?いずれにせよ、金と名誉、この二つをあなた方に与えてくれるのは正治だった。」
山本由佳里は顔色を変えない。そして、いきなり立ち上がり、何も言わず奥のドアを開け、リビングを出て行った。
この場を離れられると、何も進められなくなる。私は少し焦りを覚えた。
ちょっとすると、彼女は戻ってきた。
左手に自分用のデキャンタを持っていた。
「ごめんなさいね。やっぱり自分用のお酒が飲みたくなったの。続きをどうぞ」
「ありがとうございます。では続けます。あなたが漆原さんを雇ったのも、山本修作さんが関わっていると思ってます。あなたが帰国後、すぐに家政婦を探すようになって、たまたまですが、漆原さんの存在を修作が知る事になり、それであなたは漆原さんが登録してる会社にだけ、家政婦の募集を出したんでしょう。漆原さんが気付くような画策もしたのかもしれません。まあとにかく、漆原さんはその策略に乗って、あなたの家に入り込む事となった」
「全然違うけど、まあいいですわ。続けて…でも、苦痛になってきたらやめてくれない?」
「やめないとどうなりますか?」
「人を呼ぶわ」
「山本修作さんは今、動きにくいと思いますよ。何しろ彼は今、正治さんの弁護で大変でしょうから… 」
「じゃあ警察かしら… 」
「それなら心配しなくても大丈夫です。私の方で呼べます。話はしてありますので」
「… 」
「続けてもいいですか?」
「いいけど、私、かなりのペースで飲むから、酔っ払ってしまうかもよ」
「大丈夫です。あなたは酔っ払ったりしない。今が酔ってないのであればね」
「どうして、あなたにそんな事分かるの?」
「まあいいじゃないですか。続けます」
「ええ… 」
「あなたは漆原さんを先に取り込んだ。彼女に自分が気付いてる事を悟られる事なくね。しかし、それだけじゃあ、あなたが立てた作戦は実行できなかった。もう一人、必要だったんだ。その最後のピースに、正治さんはバシッとハマってしまった。そして、あなたの計画は実行段階へと進んだ。じゃあ、あなたの計画とは何か?子供二人を抹殺する事だったんだ。あなたは二人の子を自分の手を汚す事なく、また自分の社会的な立場を損ねる事無く、抹消したかった。その実現のために、あなたは漆原さんと正治さんを手駒のように使った。あなたが二人を操ったんだ。そして、二人は想定通りの動きを見せた。有紗さんは正治さんの手によって命を落とし、圭太君は正治氏殺害未遂の容疑で警察に拘留されている。圭太君の命を取るまでには至らなかったが、彼は今後長く刑務所か、少年院に行く事になる。あなたとしては不満足な内容かもしれないが、そもそも人が立てた計画なんて、どこかで小さなミスがあり、100%の結果なんて、なかなか望めない。そして、それをあなたは知っている。だから、今、私の前で勝利の美酒に酔いしれる事が出来ている。違いますか?」
「作り話は終わりかしら?もう十分付き合った筈よ。これでいいかしら?良ければ、お引き取りいただけますか?」
「いや、そうはいきませんな」
岩田の声がした。
「何?誰?」
私は太腿で隠していたスマホを掲げた。
岩田とつながっていた。
「今の話を全部、私だけではなく小田原東署にいる君塚正治氏にも聞いてもらってました。弁護士の山本修作氏立ち合いの元でね。今、あっちでは大変だそうです。正治氏が山本弁護士に掴みかかって、山本弁護士は殴られて、鼻血を出したりしてるようです。その際、二人で言い合いが始まりましてね、向こうで全部会話を録音してるみたいですが、どうやら、そこにいる黒崎さんの見立てとそんなに違わないみたいですよ。ですから、山本由佳里さん、現時点で、あなたは何も犯罪は犯してないんですから、正直にお話になられた方がいいと思いますよ」
「正直も何も、私は何もしていません」
「ママ、ママは僕も殺そうとしたの?」
圭太君の声が聞こえた。
岩田が連れているようだ。私が奥平に頼んだんだが…
「ええ?圭ちゃん、何でママが圭ちゃんを殺そうとするのよ。そんな事はあり得ない」
「じゃあ、あなたは有紗さんだけを抹消したかったんですか?」
「… 」
「ママ、話して… 僕もお姉ちゃんは嫌いだった」
「いいわ、話します。そうよ、有紗はいなくなればいいと思ってた。でもね、殺されるなんて思ってなくって… ただ彼女が社会に向けて私の娘だと公言出来なくなればいいと思っていたの」
「何故?」
「あの娘には、音楽的なセンスがない。全くないの。さっき漆原さんが言ってたけど、あの娘はねえ、藤沢の子でもなくて、私の若気の至りでできた娘で… でも、直後に私藤沢と付き合ってしまって、あの娘が生まれて… 何となく引っ込みがつかなくなって… それで長女として育てたんだけど… あの娘は、小さい時からピアニストとして英才教育を施したんですけどね、全く才能がなくって… 何回言っても、同じところで同じミスをしたり、テンポが悪かったり、リズム感もなかったり… 」
「それで、有紗さんを消そうと思ったんですか?ちょっと、極端すぎませんか?」
「何言ってるの?今は東京で燻ぶっているけど、ちょっと前まで、私は世界中のファンに囲まれる憧れのソリストだったのよ。その娘が音感なしの才能なしじゃあ、目も当てれないじゃないですか… 私だって、あの娘がみんなに知られてる存在じゃなければ、そこまでは思わないんだけどね、変に有名になってしまったし、中学まではニューヨークの名門音楽学校の先生に付いててもらったしね。いまさら、うちの娘はピアノが下手でしただなんて、世間に言えます?私は言えないわ」
「でも、それって単に親のエゴですよね。有紗さんにはどうしようもない… 」
「そう、エゴ、エゴで結構。私自身がその親のエゴにどれだけ苦しめられてきたかっていう事よ。私はねえ、さっきも言ったけど、愛知県の田舎の方に実家があって、父親は町の小さな写真店を経営していて、母親は高校の音楽教師だったの。母は大変プライドが高くて、そりゃそうよ、東海地区じゃあ名門と謳われた音楽大学を卒業してるんだから… 因みに私もそこの大学出なんですけど… 両親は高校の修学旅行なんかに父がカメラマンとして同行したりした関係で結婚したらしいのね。でも、母はとにかく田舎の暮らしが嫌いで、高校教師なんかに留まっている状況も嫌いで…でも母の実家の家計状態から東京に出たりする事が許されなかったらしくて… それで、生まれてきた一人娘の私に対しての英才教育が始まる事になってしまったの。母の夢を私が実現するという母の一方的な押し付けのせいでね。3歳になる頃には、もう楽譜が読めないと手の甲をつねられて…何度もつねるもんだから、やがて手の甲は紫色に腫れ上がって… あんなの、今時なら幼児虐待で捕まるところよ… 」
「でも、その甲斐あって、今のあなたがあるんですよね?」
「違うわ。私が有名になれたのは、単に色仕掛けにあっただけなの」
「どういう事ですか?」
「私が最優秀賞を獲ったコンクールの審査委員長に枕を誘われたの」
「あなたはそれに乗ってしまった?」
「そう、そして、そいつは変態爺いで、私を何年も手籠めにした挙句、パッと死んでしまった。有紗はねえ、その男の娘なのよ」
「なるほど… 」
「私には、一流のソリストとしてやっていけるような才能がない事は、もうその頃は自分でも薄々分かっていた。でも、優勝しちゃったし、世間はそうは見てくれなかった。だから、そんな世間の目を誤魔化すために、私は男に走ったの」
「なるほど、そう言う理由で、「恋多き女 山本由佳里」が誕生する訳ですか… それでも、有紗さんを抹消したいというあなたの動機にはなってないと思うのですが…」
「さっき言ったでしょう。あの娘には何の才能もないの。でも、あの娘は私の娘で、世間は才能がないだなんて見てくれはしない。だから私は、彼女に辛く当たり、キツイレッスンを繰り返さざるを得なかった。間違える度に私は彼女の身体の左側のどこかをギューッとつねった。彼女の身体の左側は内出血だらけなんです」
「そう聞きました。圭太君からも後警察の検視の結果からも」
「そうですか… そんな事をやっても、あの娘は一向に美味くなる気配がない。そりゃそうです。もともと無理なんですから… 」
「だと分かっておられるなら、彼女に別の道を与えてやれば良かったじゃないですか?」
「それはできません。私も同じ道を辿ったんですもの。あの娘にだけ楽させる訳にはいかない」
「やっぱりエゴですね」
「そう、エゴ」
「それでもまだ、有紗さんを消し去ろうとする極端な考えに至る経路が分からないんですが… 」
「簡単よ。あの娘を付きっきりでレッスンを続けていると、私が参ってくるんです。まるで昔の私を見ているようで… そう、私はあの娘の存在を消したかったんではなく、私自身の存在を消したかったんです… でも、私にはその勇気がなかった… プライドばかりが高くって… 同、黒崎さん、納得されました?」
「ええ、まあ…今電話で聞いててもらったのは、警視庁新宿東署の岩田刑事ですが、他の刑事がもうすぐここへ来ます。事情聴取のためにね。ご面倒ですが、同じ話をもう一度署で話してもらう事になると思います。あなたに何らかの刑が処せられるかどうかは私には分かりません。ですが、多分ですが圭太君は間もなく釈放されると思います。正治氏が告訴を取り下げたみたいですから… まあ、私に言える事はそれぐらいです。では、これで失礼致します。美味しいお酒をありがとうございました」
私と島野はマンションを出た。
何故だか島野は泣いていた。