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【短編小説】銀座から東銀座へ

昨夜遅くにトラブルが発生し、その対応のために僕は朝イチでクライアントへ直行した。先方の本社で詫びた後、丸の内線で銀座まで戻ってきたのは、10時ちょっと過ぎだった。改札を出ると、そのままその会社のこのトラブルで実害を受けた事業部へ行くため、有楽町へ向かう地下道を歩いた。すると地下道の真ん中で立ち止まってキョロキョロしている老婦人の二人組に声をかけられた。

「あのう、すいません。歌舞伎座はどっちに行けばいいんでしょう?」
「歌舞伎座ですか?歩くと、ちょっと遠いですよ。階段もあるし。」

ちょっと待ってくれ。
今、こんな事に付き合っている暇はないんだよ、僕には…

「困ったなあ。どうする、幸子?」

二人は80代ぐらいの杖をついた痩せて腰が曲がったおばあさんと、ふっくらとした60代女性で、親子のように見えた。
おばあさんは、腰が曲がっているばかりか、左足が悪いようで、足が軽く痙攣し、息を切らせていた。

幸子と呼ばれた娘らしきおばさんが、話し出した。

「いえねえ、アタシは東京に来て、もう40年ぐらい経つんですけどね。ずっと、スーパーの鮮魚コーナーで魚捌いてね。こっちにいるのは、アタシの母なんですけど、初めて東京に連れて来たんですよ。母がね、死ぬ前にいっぺんでいいから、歌舞伎座で生の海老蔵が観てえって、ずっと言ってるものですから。コロナが治まりつつあって、やっと切符が取れたのでね。観せに来たんです。でもねえ、アタシ、普段、ずっと板橋本町から出なくって。銀座はね、若い頃はちょくちょく来てたんですけどね。もうすっかり変わっちゃってて、分かんなくなって、困ってるところなんです。」

本音を言おう。
今の僕には、本当にこの年老いた親子に付き合っている暇はマジで、ない。「ごめん、急いでるので」と言って、この場を立ち去りたい気持ちでいっぱいだ。
僕が、入社以来初めて自分で手に入れようとしていたビッグチャンスが、ちっぽけなトラブルのせいで台無しになりそうになっている。
僕は、これから有楽町にあるクライアントの事業部へ行き、フランクフルトに出張中の担当者に、トラブルの経緯と今後の対応について具体的な話し合いをするZoomミーティングに参加しなければならない。

ミーティングのアポは11時。少なくとも15分前には先方の会議室に入り、先方のこっちに残っているスタッフに詫びを入れたり、ミーティングの進行について打ち合わせたりしなければならない。

今はもう10時15分で、先方には15分前には着いていたいので、ここからだと、速足で歩いてやっと間に合う時間だ。

「すいません…うちの母が足が悪くて…どうしたらいいんでしょう?地上へ出て、タクシーに乗った方がいいのかしら…でも、ここからどう行けば、地上に出れるのかねえ…」

杖をついている痩せて腰の曲がったおばあさんは、立っているのがやっとみたいだ。座れるところがあればへたり込みたいのだろう。左足の痙攣も酷くなっているようだ。

地下道は温度が高く、娘の太ったおばさんは、額の汗をハンカチで忙しなく拭いている。

いよいよ困った。
しかし、この二人の姿を見ていると、袖にするのは忍びない。

「歌舞伎座には、何時までに行きたいのですか?」
「11時です。」

僕のリミットの時間と全く同じだ。どうする?

ひらめいた!

「ちょっと、待っててもらえますか?ちょっと、電話をかけますんで…」
「ああ、そうですか。どうぞ、お待ちしますので…」

おばあさんはついに杖で支えられなくなり、コンクリートタイルの床にへたり込んだ。

「幸子、あたいはダレたとよ。がっちゅ、ダレたあ。」

何弁なんだろう?

僕はスマホを出し、フランクフルトにいる先方の担当者へTV電話をかけた。
彼はすぐに取ってくれた。

「上村君、どうした?間もなく、ミーティングだろう?」
「ええ、西園さん、その通りなんですが、大変不躾で申し訳ないのですが、お願い事がありまして…」
「どうした?」

僕は、この親子に遭遇した事実と、自分の気持ちとして、何とか時間までに歌舞伎座まで連れて行きたいという思いを話した。

「しかし、上村君。それはおかしいじゃないか?気持ちは分かるが、何しろ今は、時間がない切迫した状況だろう?早く、みんなと話し合う事が優先されるのでは?」

「幸子お、あたいはダレたあ。がっちゅ、一歩も歩きたくなかんごとじゃっど。」
「お母さん、そげん言いなさんな。やっせんが。」

親子は、僕がスマホで話している背後で大声で言い争いを始めた。

「上村君。」
「はい。」
「君の後ろで、大声で話してるのが、その親子かい?」
「そうです。」
「ちょっと、そのおばあさんに代わってくれないか?」
「ええ?」
「いいから、早く。」

僕は、スマホをおばあさんの方へ向けた。
すると、西園さんがおばあさんに話しかけた。

「あんたは、かごんま(鹿児島)の人じゃいかな?」
「そげんじゃっど。」
「あたいは、知覧よ。」
「わっぜ、驚いたあ。あたいはやまんかん(山川)よ。」
「あらもした…近くじゃいがな。」

西園さんは、その後5分近く、この親子とTV電話で話した。ようやく僕の方へ画面が向けられると、西園さんはこう言った。

「おばあさんは、来年卒寿だそうなんだよ。種子さんという名前らしい。娘さんの幸子さんがその卒寿のお祝いに、自分でわざわざ鹿児島までお母さんを迎えに行って、今日歌舞伎座まで行くらしいんだ。だから、上村君、お願いだ。君が二人を連れて行ってあげてくれないか?うちの連中には、僕から連絡しておくから。ミーティングは、君がウチの会議室に着いてから始めよう。」
「分かりました。」
「宜しく頼むよ。」

電話を切り、僕は二人の方へ向き直った。

「ここからなら、日比谷線で一本ですから、日比谷線に乗りましょう。お母さんは、立てますか?」

種子おばあさんは、床から自分で立てそうになかった。だから、僕は種子さんの腕を取り、おんぶした。

「じゃあ、行きますよ。」

日比谷線の銀座駅から、東銀座へ一駅。

駅の中ほどのエスカレーターで改札へ上がり、歌舞伎座の地下入口までおばあさんをおぶって行った。

「さあ、着きましたよ。」

時計を見ると、まだ10時40分だ。

「ここで、お弁当を買って、エスカレーターで上に上がったら、すぐに入口がありますから。じゃあ、僕は急ぎますので、これで…」

「ありがとう、ありがとう…」

二人に何度も頭を下げられながら、僕は日比谷線の駅へと戻っていった。
ホームへ降りるエスカレーターの上で、僕は西園さんへ電話し、二人を無事、歌舞伎座まで送り届けた事を伝えた。

「ありがとう、上村君。本当に、ありがとう。」
「いえ、そんな。でも、西園さんがご了承して下さらなかったら、僕はこんな事、できませんでした。お礼を言うのは僕の方です。」
「現象面で言うとね、そうかもしれない。ただ、僕は嬉しかったんだよ。」
「嬉しかった?」
「久しぶりに故郷の言葉が聞けたことが…」
「…」
「だから、ありがとう。」

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