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【連載小説】六浦敏郎 ラーメン屋の店主になる ④
「ちょっと待って、今裸なんだ。」
「えっ?」引き戸が途中で止まった。「どういう事ですか?」
「いや、エアコンをかけたばかりで、暑くてね。シャツ脱いで、汗を拭いてるところなんだよ。」
厨房の奥にふと目が行った。
濃紺の川田屋と書かれたTシャツとタオルがあった。
洗って返せばいいなと思い、私はそのTシャツを着て、タオルで顔を拭いた。
「もう入っていいよ。」
「お邪魔します…」そう言いながら、若い男性が一人で入ってきた。
「ホント、ものすごく暑いですね。どうしたんですか?」男は顔に吹出す汗を尻ポケットから出した白いハンカチで拭いながら言った。
「そう暑い。さっきまで全部閉めきって、エアコンもつけてなかったんだよ。だから、まだエアコンが効いてこなくって…ところでお宅は誰なんですか?何の御用?」
「いや、それは僕が訊きたいですよ。僕はこの店の常連です。だけど、来るのは久し振りですけどね…あなたこそ誰なんですか?ひょっとして、この店はオーナーが変わったとか?だったらイヤだなあ…味が変わっちゃうもんなあ…でも、待てよ。あなた、川田屋のTシャツ着てますよね。川田屋はそのまんまなんですか?」
「川田屋はそのまんまですよ。あなた、常連さんだったらご存じかもしれないけど、この店の大将が交通事故で亡くなったでしょう?」
「ええ、同僚から聞きました。だから、あなたが来たんですか?」
「まあ、そういう事です。店の奥さんも過労で倒れられたみたいで今は入院中で、残された小学生の息子さんが、今朝自分一人で寸胴で出汁をとろうとしてるところに出くわしましてね。その子はこの暑いのにエアコンもつけずにここで作業して、どうやら熱中症になったみたいで、さっき救急車で運んでいったんですよ。私の娘が付き添ってね」
「それで、あなたが一人で仕込みをやっていたという事ですか?」
「仕込み?仕込みなんてとんでもない。この店の大将が全くの急死だったんでしょう?彼は店で出すラーメンのレシピを全く残していなかったようで、残った奥さんは試行錯誤、見様見真似でラーメンを作ってはみたものの、旦那さんの味には程遠かったみたいで、客足が落ちて、」
「そうだったんですね。僕、この店に来るの一年ぶりで…僕、この近くの大学で考古学を教えてる講師なんですが、つい3日前までアルゼンチンにいたんですよ。交換留学制度でね、一年間です。で、何といっても恋しくなる訳ですよ、日本食が…アルゼンチンにも日本食レストランが少しはあるんですけど…僕にとってラーメンはやっぱりここの味噌ラーメンなんです。これが最高でね。でも、さっきも言いましたけど、うちの大学の同僚からここの店の大将が突然事故で亡くなったって聞いて、もう食べられないのかと思って、今日ここの前を歩いてたら、シャッターが開いてたんで、てっきり開店してるんだと思って、それで声をかけてしまったんです。」
「なるほど、そういう事ですか。分かりました。私は六浦という者です。縁あって、この店の味の復活を託されたのですが、如何せん私はここのラーメンを一度も食べた事がない。あなた、お名前は?」
「大杉琢朗です。琢朗は、横浜のレジェンド石井琢朗と同じ字です。親父がファンだったものですから…」
「そうですか、石井琢朗ね…生憎僕は西武の選手しか知らないんで、石井琢朗の事はあまり知らないんですが…まあいい、石井さん」
「いや、大杉です。」
「ああ、ややこしいな。じゃあ、琢朗君、お願いがあります」
「何でしょうか?」
「僕はこれから、川田屋の味噌ラーメンを復活させるようにやってみます。ついては、毎日、昼と夜にここへ来て味見をしてもらえませんか?」
「ああ、そういう事ですか?それは店の客として?」
「いや、お代はいただきません、ただの味見役として。しかし、ちゃんとしたラーメンを提供します。でもね、本当のところ、出汁はおろか、味噌の調合やチャーシューの作り方なんかも今僕は全くの白紙なんだよ。」
「なるほど、それはやりがいがありますね。僕で良ければ、毎日来ますよ。今日の昼からですか?」
「いや、今日はまだ麺も発注してないし、出汁の研究で精一杯だと思うんだ。ここの息子さんの容態も心配だしね。明日の昼にここへ顔を出してもらえると助かります。」
「分かりました。じゃあ明日の12時頃に来ます。」
「助かります。ありがとう」
「いえ、いえ、じゃあ、明日」
「ああ、明日」
琢朗は出て行った。
スマホが鳴った。
愛美からだった。
諒太君は、大した事にはならなそうだと伝えてきた。
お母さんの病室に入院できたみたいだ。
こっちの心配をしなくてもよさそうだ。
私は出汁作りに専念する事にした。
愛美は病院に残るようだ。