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【連載小説】夜は暗い ①


 
起きたらまず、サイフォンでコーヒーを淹れる。
何よりもまずだ。
カーテンを開けてもいけないし、タバコを吸ってもいけない。
顔を洗ったり、「まずトイレ」と言って、駆け込んでもいけない。
サイフォンで点てる一杯分のコーヒーなんてすぐに出来るからだ。
 
コーヒーが出来たら、自分のマグへ注ぎ、一口飲んでからトイレへ行く。
用を足したら、テレビをつけ、カーテンを開ける。
窓の外はネオンの灯りで眩しい。
そう、今は夜だ。時間は午後9時を過ぎたところ。私のいつもの起床時間だ。
 
私の部屋は雑居ビルの10階にある。
眼下には新宿通りが見える。
このビルは9階までは全部飲食店が入ってる。
私のいる10階はその昔、このビルのオーナーだった私の知り合いが、自分の住居として作った部屋だ。
 
その男は生涯独り身を貫き、自分がゲイである事を公言せず、53歳の若さで末期がんで死んだ。
彼は遺言状を認め、彼が唯一の家族だと一方的に思っていた私に、このビルの権利とこの部屋の居住権を与えてくれた。
私と彼との間に何かがあった訳ではない。
ただ、私は彼に優しくしただけだ。
でも、それを彼は尊いものだと思ってくれた。
そして、彼の全財産を私に譲ってくれた。

だから今、私は一人でここに住んでいる。
 
私は下の通りで今日も蠢く人の流れを見ながら、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
 
豆の事は何も知らない。
産地がどこだとか、煎り具合だとか、挽き具合だとか、そんなのも全く関心がない。
ただ、自分好みのコーヒーの味だけは知っている。
 
今使ってる粉は、ウチのビルの1階にある今流行りのラテアートの店の若い店主が選んでくれたもので、私は気に入っている。
彼曰く、アラビカ豆をメインにして、他産地の豆を配合したブレンドコーヒーらしい。
 
私は所謂ストロングコーヒーが好きだ。かと言って、エスプレッソが好きな訳ではなく、あくまでもサイフォンで点てたさらっとした濃いブラックコーヒーが好みなのだ。
 
今日もお気に入りの一杯を飲み干した。
 
さあて…
 
私は身支度をする事にして、洗面所へ向かった。
まずは髭を剃らなければならない。
 
 


私の部屋は裏の隠し階段を通じて9階に下りられる。
9階には、私自身が経営するバーがあり、英郎という30過ぎの男に任せている。
店は小さく狭い。コの字のカウンターに7人までが座れる。
夜9時半では、この店に客がいる訳がない。ここの客はみんな終電を気にしない客ばかりだからだ。
私が裏口から店に入っていくと、カウンターの中にいる英郎が冷蔵庫から2ℓの透明なペットボトルを出して、カウンターに置いた。
「おはよう、オーナー」
「オーナーはやめろと言ってるだろう?」
「だって、そう言うと黒さんはいつも怒るじゃないですか。それが面白くて…」
 
私の名前は黒崎透だ。巷じゃ「黒さん」で通っている。
 
「いい大人を茶化して遊んでんじゃねえよ。バーカ」
「バーカだって、まるで子供じゃねえっすか。まあいいや」
私はカウンターのペットボトルを取り、店の奥にあるトイレと間違えそうなドアを開けて中へ入っていった。
 
ここが私の仕事場だ。
 
仕事?
 
厳密に言えば、私に仕事なんてない。
このビルの家賃収入は銀行口座に振り込まれるだけだから、いちいち集金に出向く必要もないし、私に金が入る仕組みはそれだけしかない。
 
毎日やる事がない。
 
だから私はこの部屋で暇潰しをしている。
 
 


さっき受け取った透明なペットボトルは強炭酸水が入ってる。
私は夜は酒を一切飲まない事にしている。
飲むのは朝5時からだ。
私は酒が好きなので、夜に飲めないのは多少キツい。
そのキツさを紛らすために私は炭酸水を飲む事にしている。
 
 
私の小さい部屋には、私のデスクと書斎用の椅子、そして来訪者が座る椅子がある。
お気づきかと思うが、この部屋は元々なかったもので、隣のバーを開く時に無理やり壁を取り付けて作った部屋だ。
お陰でバーもこの部屋も大変手狭で、私はデスクの向こうにある自分の椅子に腰かけるために壁とデスクの縁との間を腹を引っ込めながら通らなければならないほどだ。
 
私は椅子に座ると、デスクにあったリモコンで、前にあるTVをつけ、録ってあった大谷の試合を見始めた。
 
私は野球が好きで、西武ライオンズを応援しているのだが、今期のライオンズはめっきり弱く、どうしても気分が上がってこない試合ばかりなので、今はニワカ大谷ファン、ニワカドジャーズファンを気取っている。
 
大谷は50-50を達成した後、今はプレイオフを戦っている。
 
大谷が第一打席で凡退した後、ノックの音が聞こえた。
 
「どうぞ」
 
今宵一人目の来訪者だ。
 
 


少年が入ってきた。
背は160㎝をちょっと過ぎたぐらい。
ブカブカのパーカーとバレルレッグのパンツを履いてるために、実際の体形はよく分からないのだが、顔の細さからしてきっと痩せてるんだろう。
何のマークかよく分からない黒のキャップは彼には似合わない気がした。
 
「そこに座って。君の席だ」と私は来訪者用の椅子を指して言った。
彼はちょこんと座り、キャップを取った。
 
部屋に入れば、帽子をとる。何と行儀の良い事だ。親の躾が行き届いているんだろう。
 
「おじさん、何でも答えてくれるって、下で訊いてきたんだけど…それはホントですか?」
「何でも?何でもかどうかは分からないが、まあ話してごらんよ。私に無理なら、それはそう答えるし、君がしゃべった事は録音もしないし、他の誰にもしゃべったりしない」
「どうしようかなあ…」
「まあ君が決めればいいよ。炭酸水飲むかい?」
「甘くないの?」
「甘くはないな。甘いのがいいの?」
「できれば…」
「コーラとスプライトなら、どっちがいい?」
「スプライト」
「じゃあちょっと待ってて」
私はドアを開けて、英郎にスプライトを出してもらいに行った。
 
 
ドアを出ると、英郎に向かって大声で「スプライトを出してくれ」と言い、続けて小声で「島野を呼べ」と言った。
英郎はスプライトを出して、私に向かってOKと合図した。
 
私はスプライトを持って、部屋へ戻った。
 
少年は、席に座ったまま、スマホを見ていた。
私は少年の横のサイドテーブルにスプライトを置いた。
少年はスマホから目を離し、私を見て「ありがとう」と言った。
 
どこまでも育ちのいい子だ。そんな子が今ここにいる事に大いなる違和感を抱かずにはおれない。
 
「で、私に何を訊きたいんだ?話す気になった?」
「まあ話してみてもいいんだけど…」
「大体、君はいくつなんだ?」
「13歳」
「中一?」
「中二」
「家は都内?」
「中野」
「中野の中学生が、こんな時間に新宿で私を訪ねてるという事?」
「そう」
「で、私に訊きたい事があると?」
「うん…」
「私のところは下で聞いてきたと?」
「そう」
「誰から?」
「白い髪の若いおじさん」
 
あー…デビッドか…
 
デビッドは、この界隈で有名なスカウトマンだが、彼はちょっと変わってて、困ってるヤツへの世話焼きが好きだ。
デビッドと名乗ってるが、純然たる日本人で、生まれも育ちも私と一緒、神戸だ。
彼は仕事の合間によくウチのバーに来て、英郎と話しながら酒を呑んでいる。
英郎とデビッドが年が近いので、色々と話が合うのだろう。
私は英郎からデビッドを紹介された。そして、同郷だと知った。
 
「じゃあ君は、下の通りで白い髪のおじさんへ声をかけたんだ?」
「そう」
「何て?」
「ここらへんで、咳止めの薬を売ってるところを知りませんかって」
 
オーバードーズだ…
 
しかし、この少年には、そんな感じを受けない…
 
ドアがノックされた。
 
「島野が来た」という知らせだ。
 
私はドアを開け、島野に「待つように」と合図した。

 



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