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【連載小説】六浦敏郎 ラーメン屋の店主になる ①
※この物語は「松山行きのバスに乗る」の続編です。興味がある方はそちらからお読みください。
【本編】
最近は、愛美の帰りがずっと遅いため、私は専ら一人で夕食を取っている。
愛美が外で食べてきてくれたら、私の夕食なんてちょっとした酒のつまみとごはんとみそ汁でいいのだが、相変わらず愛美はどんなに遅くなっても「晩ごはんは家で食べる」と決めているようで、なかなか手抜きができない。
だから今日も、愛美の強い要望で久し振りにスペアリブを焼いた。
私のスペアリブは、やはりソースが決め手だ。
ウースターソースと、醤油がベースで、後はニンニク、ショウガ、セロリなどの香味野菜、リンゴ、はちみつ、そうそう、私はリンゴだけではなく、洋ナシも入れる。全部をミキサーでドロドロにして、ウースターソースと醤油の入ったソースに合わせる。最後に隠し味で、八丁味噌を大匙一杯ほど。これでコクが変わる。全部入れたら、鍋で一煮立ちさせてから冷ます。
うちのスペアリブには、特製薄味コンソメスープが欠かせない。薄味のスープがリブの濃い味付けを中和してくれる。
スペアリブは、4本焼いた。私は、ビールとともに一本だけ食べた。
そして今は、3本がオーブンに残ったままだ。
夜10時過ぎ。
私はもう風呂も入ったし、今はリビングでウィスキーのソーダ割りを呑みながら、テレビの時間だ。
録り溜めしている旅ものの番組を繰り返し見ている。
今日は、群馬から長野へ向かう温泉の巡り旅の番組だ。さっき、渋温泉が終わった。CMの後は、猿が温泉に浸かる事で有名な地獄谷らしい。
ウィスキーが切れた。もう一杯だけ、薄めのウィスキーソーダを作ろう。
そう思って、私はカウチを立った。
すると、玄関のドアが開く音がして、「ただいま」と、愛美が帰ってきた。
「おかえり。」
「お父さん、今日スペアリブ?」
「分かったかい?」
「だって、玄関のドアを開けたら、途端にプーンって。」
「そうか。食べるか?」
「もちろんよ。お腹、ペコペコ。」
「じゃあ、着替えておいで。前を汚してもいいヤツにするんだぞ。」
「分かってます。」
一緒に住むようになってから、もう十回以上はスペアリブを焼いているが、愛美はまだ、一度だってソースで顔を汚さなかった事はないし、大体が服まで汚してしまう。
着替えて部屋から出てきた愛美は、違和感がすごかった。
2周りは大きいスウェットシャツを着ていたからだ。
よく見ると、私がバルコニーで自家菜園の作業をやる時に着るスェットシャツのようだ。
「おい、そのシャツ、僕のだろう?」
「そう、ダメ?」
「いや、ダメとまでは言わないが、何か切ないなあ…」
「切ない?ああ、私が汚すから?」
「そう、多分20分後ぐらいには、そのライトグレーのシャツの前が茶色くベタベタになるのかと思ってさ。」
「それは仕方ないわよ。スペアリブなんだから。こないだスペアリブ食べた時に、私、結構気に入ってたネルのシャツを汚しちゃったから、もう嫌なんだよね、自分の服をリブのソースで汚すの。洗ってもシミ取れないし…」
「だからって、僕のシャツを着る事ないだろう?何かないのか?」
「ないの!大体、お父さん、このシャツ、どんだけ着てるのよ?もう、首のとこだって、クタクタだし…いいわ、これの代わり、今度私がしまむらで買ってきてあげるから、それでいいでしょう?」
「分かったよ。」
チン!
オーブンで温め直していたリブが焼けた。
「何本、食べる?」
「何本、あるの?」
「三本。」
「じゃあ、全部。」
「すごいな。」
「お昼抜きだったのよ、今日、忙しくて。」
三本とも皿に載せた。
そして、温めていたコンソメスープを注ぎ、サラダを冷蔵庫から出した。
ごはんは、愛美がよそった。
準備ができた。
私は、愛美の食事を準備するために中断していたウィスキーソーダを作る事を再開した。
すると、愛美が「私も呑もうかなあ。」と言った。
「いつもの?」
「そう、ちょっと濃いめに。」
「分かった。」
愛美は、全く酒が呑めない。ちょっと吞んだだけで顔が真っ赤になってしまう。
そんな愛美だが、最近は私に付き合って、ウィスキーのジンジャエール割を、たまに呑む。
トールグラスの底から高さ2㎜ぐらいにウィスキーを注ぎ、後はジンジャエールをグラス一杯まで注ぐ。その上からレモンを絞って完成だ。
ちょっとだけ濃いめ? 2㎜を3㎜にした。
愛美のグラスと、私のウィスキーソーダにレモンを絞り、私は食卓に戻った。
愛美のトールグラスを渡し、受け取りざまにグラスを合わせ、乾杯した。
愛美は一口呑み、「生き返るう!」と言った。ほぼほぼジンジャエールなんだが…
そして、彼女はスペアリブの制圧作戦に取り掛かった。
私は、酒を呑みながら、白菜の浅漬けをつまみ、彼女の作戦遂行を見守る事にした。
「アチ!」
べシャ…
「だから、熱いって言ったろう…」
「だってえ、早く食べたかったんだもん…!」
こうして、愛美のスペアリブ制圧作戦は、作戦行動に入る前に、脆くも崩れ去った。
愛美の胸に茶色いソースが派手に飛び散った。
アツアツの骨を手づかみにしようとして、指が熱さに耐えきれず、大きな骨付き肉を皿の上に落としてしまった。それで、このざまだ。
シャツの前はスプラッタムービーのように、盛大な血飛沫をあげたようなスプラッシュ模様が出来ている。
「これでヨシ!」
「えっ?何が、ヨシなんだ?」
「これで服を気にせずに、骨にかぶりつけるわ。」
「なるほど…」
正直、私は呆れた…
愛美は、三本の肉をぺろりと平らげてから、ご飯を食べ始めた。
コンソメスープをかけて、コンソメスープ茶漬けだ。
美味いのか?
愛美は、それを白菜の浅漬けや梅干し、昆布の佃煮とともに食べた。
ちょっと、美味そうだ…
明日の朝、僕もやってみようかな…
「あっ、そうそう、お父さんにお願い事があるんだけど?」
「なんだい?」
「お父さん、今、クライアントがなくて、暇でしょう?」
「ないという訳ではないよ。ちょっとお休みしているだけだ。」
私は、ずっと勤めていた証券会社を辞めた後、自分だけのコンサルティングファームをやっている。
最初は、3社ほど担当していたが、今はもう1社だけになっており、その1社も創業者が1か月ほど前に亡くなり、跡目争いが起きていて、私の出番がなくなっている。しかも、後継者次第では、ずっと出番はないのかもしれない。まあ、それならそれで仕方がない。また、新しいクライアントを見つけるだけだ。年金をもらうまでには、まだ数年あるので、それまでは働かなければならないのだが、幸い私の方も、愛美の方も貯蓄があり、そこまで焦る必要もない。だから、何となくのんびり構えてしまっている。
「次のクライアントがすぐに見つかる訳じゃないんでしょう?」
「まあな…」
「だったらお願い!ラーメン屋の店主になって!」
「私が前に働いていたスマイルハウスの事なんだけど…」
愛美は子供の貧困や、生活困窮者家庭を救うためのNPO法人スマイルハウスに大学時代から勤めていた。今は、スマイルハウスには時々通うだけになっており、都内にある国際的なNGOの事務局で世界レベルの子どもの貧困と戦っている。
「ああ、スマイルハウスがどうしたんだ?」
「あそこにね、通ってきてる川田諒太君って子がいてね。その子、スマイルハウスのすぐ先のラーメン屋の一人息子なんだけど…お店はね、夫婦でやっていた小さなお店でね、半年ほど前に、お父さんが、交通事故で亡くなって、お母さん、ずっとホールやってて、厨房になんて、入った事がなかったんだけど…お父さん、いなくなっちゃったから、仕方なく見様見真似で、ラーメン作り始めて…諒太君も、学校終わったら、店を手伝ったりしてたんだけど…先週、お母さん、倒れてね。過労らしいんだけどね…お店開けないと、家賃も払えないみたいで…」
「で、僕に、ラーメン屋の店主になれ、という訳か?」
「そう。」
「明日は、土曜日だよな。愛美は何か予定あるのか?」
「ない。」
「じゃあ、行こうか。そのお店に。ついでにお母さんのお見舞いも行こう。」
「やったあ!だから、お父さん、好き!」愛美が私に飛びかかってきて、ハグしようとした。
「追いおいおい!やめてくれ!僕まで、ソースまみれになる!」
「あっ、そっかあ…」
「いいから、食卓を片づけて、食休みしたら、お風呂に入りなさい。ああ、シャツは洗面所でつけおき洗いしておいて。」
「分かった。」
愛美は、食器を片づけ始めた。
私は、自分のグラスを持ち、リビングで温泉巡りへと戻った。
続く