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【連載小説】夜は暗い ㉕
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コーヒーを飲み、シャワーを簡単に浴びた後、サッと着替えて、私は下の店へ降りた。
店に入ると、平日にもかかわらずカウンターには岩田と島野しかおらず、左端に二人は並んで座り、カウンターの中にいる英郎を交えて、ジェンガをしていた。
酔っ払いがジェンガ…
まともな勝負になる訳がない。
「何だ、暇だなあ。今日は水曜日か?」と、私は英郎に話しかけた。
「そう、ヒマ水っすよ。気づいてなかったんすか?」
このビルのオカルトなのだが、毎週水曜日だけは夜12時を過ぎると、途端に客がいなくなる。うちの店だけではなく、1階から9階までの全部の店がそうなのだ。不思議だ。これをオカルトと呼ばずに何と言えばいいんだろう…
英郎は階段を下りてきた時点で、カウンターの中から私を目視していたので、全く普通に返事を返したが、岩田と島野は私に背を向けていたので、びっくりした様子で私の方へ振り向いた。
その時に、岩田の肘がジェンガを倒した。
ガランとした店内で、ジェンガが落ちていく音が響いた。
「ああ、岩田さんの負けね。カレーうどん、奢り決定!」
嬉しそうに島野が叫んだ。
「いや、それなら負けは黒崎だろう!急に来るからびっくりすんだよ」
金がかかると、意地でも負けを認めないのが岩田だ。
しかし、これはいいのか?賭け事?彼は警官だぞ? ヤツに限って、まあいいのか…
「待てよ、俺は指一本も触れてねえぜ。素直に負けを認めろよ」
と、私が宣言するように言うと、場の空気が岩田の負けを示唆した。
「分かった、じゃあこうしよう。俺も男だ。素直に負けを認めよう。但し、今回の負けには黒崎の反則行為も認められるから、俺は島野君の分を奢り、黒崎は英郎君の分を奢れ!それでいいだろう?」
「ええ、お前が負けを認めるのか?珍しい…」
「仕方ねえだろう。絶対に負けねえと思って、乗っちまったんだ。ただでカレーうどんが食えると思ってな」
「ただより高えもんはねえだろう」
「まあな、思い知ったよ。なあ黒崎、それでいいだろう?」
「ああ、いいだろう。どうせ、これ以上はお前は譲らないだろうからな」
「じゃあ決まりだ。英郎君、早速電話を」
「分かりました。黒さんも食べますよねえ?」
「ああ、でも何で、カレーうどんなんだ?」
「名古屋のカレーうどん屋が出来たのよ。私、こないだワークショップがあったんで一泊二日で、名古屋に行ったんだけど、夜ね、現地のNPOの人たちと打ち上げやって、最後の〆がカレーうどんだったの。これが美味くって…そのチェーン店が東京にできたの」と、島野が説明した。
「それをな、さっきから30分以上聞かされてな。俺らもカレーうどんの口になっちゃったんだよ。だから、出前を頼もうと思ってたら、ただ頼んだんじゃ面白くないって言いだして…」
「それでジェンガか?でも英郎君まで混じったのはスゴイな。君はいつもなら絶対にやらないだろう?」
「さっきも言ったでしょう。ヒマ水なんすよ。ヒマすぎて… お二人が別々ですけど、12時前に来てくれるまで、ウチ、客0ですよ。ムッチャヒマで…それに瑤子ちゃんの話聞いてると、俺もそのカレーうどんを食いたくなっちゃって… ああ、岩田さん、今発注しましたんで… 30分後ぐらいには届く予定です」
「分かった。30分だな。俺の分、大盛りにしてくれたよな?」
「全員大盛りです」
「スゴイな… 」 私は寝起きだ… そんなに食えるのか?
カレーうどんが届くまでの間、私たちは他愛もない世間話をして、笑いながら飲んだ。
飲んだと言っても、夜の間は私が飲むのは炭酸水だ。
酒が弱い英郎君も同じく炭酸水で、岩田と島野は、カレーうどんが届く前とあって、二人は軽くハイボールを嗜んでおり、最近あった面白い話や、お互いの知人のあり得ない失敗等、くだらない話で盛り上がった。
いやあ、本当に久しぶりだ。
私の夜が帰ってきた。
私は夜が好きだ。
夜に生きる人間たちと触れ合うのが大好きだ。
そして、そんな人たちとくだらない話で笑い合うのが好きだ。
カレーうどんが届いた。
みんなで一斉に啜った。
一見、普通のカレーうどんのように見えたが、食ってみると別ものである事を感じた。
スパイシーさと、コクと、うどんのコシの強さが違う。
ムチャクチャ美味い。
大盛りだが、みんな10分で完食した。
食べ終わった後、岩田は別の丼を開けた。
彼は、2杯頼んでいた…
カレーうどんを食べ終わった後、私は無性にコーヒーが飲みたくなったので、カウンターに入り、こっちに置いてあるサイフォンでコーヒーを淹れた。
うどんを食う時から英郎君はカウンターの中にはおらず、島野の横で、ずっと二人で話しながら薄く割ったハイボールを飲んでいた。
対して島野は、相変わらずの酒豪ぶりで、今はシングルモルトを1オンスグラスでクイクイ飲む。
酒豪と言えば、岩田も並び立つのだが、彼は今日は大人しく普通のウィスキーの水割りを飲んでいた。ハイボールはもう入らないらしい。
ただ、普通と違うのは、彼が水割を飲む様は、まるで麦茶を飲んでるように見える事だ。
ヤツは水割りをゴクゴク飲む。そして、ひっきりなしにカシューナッツを口に入れる。
私は、カウンターの中で一人、自分好みのコーヒーを飲んでいる。
「ああ、いい夜だなあ…」と、岩田が言った。
「ホント、いい夜だわあ」島野が呼応した。
本当にいい夜だ。
ケータ君の一件に巻き込まれる前にはこんな夜は時々ある普通の事だったが、色々あった上での今日だ。
今夜はその普通さが愛おしい。
「いい夜っすねぇ」 私が言う前に英郎君が呟いた。
彼もそう。私には言わないが、きっと色んなプレッシャーを感じていたのだろう。
そう、今夜は何だか解き放たれた気分がする夜なんだ。
私も「ホント、いい夜だ」と言った。
「俺、帰るわ」と言い、岩田が急に席を立った。
「待てよ。お前、俺に用があるんじゃないのか?」と私が訊いた。
「いや、頼まれた用事は、今日の午前中に下のヤツに役所へ行かせて調べさせる。詳しい事が分かったら、連絡する。今日来たのは、ここまでちょっと大変だったなあと思っての事だ。美味いカレーうどんも食ったし、もう帰って寝るわ」
「岩田さんが帰るなら、私も帰る。岩田さん、落合でしょう。私、東新宿だから、タクシー乗せてってよ」
「ええ?じゃ黒さん、僕も今日はもう帰ってもいいですか?タクシー便乗したいんで…」
「分かった。じゃあもう帰りな。ここは僕が片づけとくから」
「ありがとうございます」
あっという間に、三人は店を出て行った。
彼らが呼んだエレベーターのドアが閉まると、急に静かさが際立った。
まあいいか…
私はうどんの容器や、グラスを片づけ始めた。
あれ?
島野は私に何の用だったんだろう?
それに、英郎君もタクシーに便乗すると言ってたが、ヤツは水道橋の辺りに住んでいるんじゃなかったか?
俺はダシかあ…
今まで気づかなくて悪かった。
早合点か…? いや…