憤りを力に変えようの会①
アアアアアアアア‼️(あいさつ)こんばんは、三叶です。
自分の昔の憤りと今の思考の繋がりを見つけたので短文ですが書いておこうと思います。
憤りの中身ですが、まずは昔話から始めたいと思います。短文とか言っておきながら前置きから長そうで草。
小学生の頃、私にはある友人がいました。その人は賢く、運動もでき、性格も良い人でした。なぜ、私と友達だったのか不思議なくらいですねはい私はその友人とテストの成績を競ったり、涙が出るまで笑ったりしていました(前のnoteで憤りにフォーカスしたため私の小学校時代が陰鬱なものに見えている可能性がりますが、三叶はそんな素晴らしい関わりにも恵まれた小学生時代だったことを学友の名誉のためにここで表明しておきます)。
書き起こすにつれそんな人と陰鬱ワイが仲良かったのかわからなくて笑いが出てきましたが脱線するので思考をストップ🫸🧠🫷本題に戻ります。
その友人についてライバルのように表現してはいますが、実際はやや私の方が劣勢でした。特にスポーツについては友人がゼッケンをはためかせてシュートを決める一方、私はコートの端でボールにありつけず1人シャトルランを繰り返していました。玉眺めるの上手いね🤩👍団体競技に個人競技、そしてマット運動からバレーボールまで、どうしても友達には一歩及ばずだったのが小学生三叶の主な戦歴でした一歩及ばずと表記してあたかも接戦だったかのように誤認させる三叶であった
そんな友人との対戦記録でしたが、小学六年生のスポーツテストでついにその時は訪れました。50メートル走の記録で、私は友人に勝利したのです。それも僅差ではなく、そこそこの差をつけて。舞い上がった私は、調子に乗って友人に勝ちを誇り、そしてこう言い返されました。
「しょうがないじゃん。私女の子なんだもん」
(ここからは便宜上友人を『彼女』と呼んだりしますよ〜)それは、能天気でかけっこで真剣に喜んだり悔しがれるような当時の私の価値観を大きく揺るがす発言でした。私は浅知恵ながらに「そうか、女子は第二次成長が始まって筋肉がつきにくかったりするんだったかな」などと自分を納得させて笑ってやり過ごしてしまいましたが、笑ってやり過ごした自分の気持ち悪さと友人の何か諦めたような言い方がいつまでも尾を引いていました。何事においても優秀で、友と言いながら尊敬すら抱いていた友人。彼女がなぜそう言ったのか。何が友人にその一言を言わせたのか。その疑問はスポーツテストが終わった後も、その後の学力テストでどちらも満点だった時も、卒業式で一緒に写真をとったときも、私の心の中に燻っていました。
SNSで男女の対立を煽る論調が絶えない昨今、「男性は自分より優秀な女性に遭遇すると腹立たしくなる」「男性の方が能力が高く、身体能力や数値上の男女平等のために女性枠を設けざるを得ない実情がそれを反映している」といった性別に起因した能力差についての意見が見られます。正直三叶としてはうんざりしており、友人間や家族で話題にすることはあってもネット上で素性の知れない人と建設的な議論に持ち込む自信がないので発狂して目を通したら意見しないと気が済まない時以外は触れないでいます。でも、それらの話題を目にしたときに、決まって思い出されるのは友人のその一言です。
彼女とは中学も異なり、現在まで会っこともないです。ですがあまり心配はしていません。友人はとても素晴らしい人間でしたし、それは今でも変わらず幸せに過ごしているであろうと、そう確信に近いものを持てるからです。
それでも私は憤ります(⁉️)そんな彼女が「女の子だから」と口にするような世界に。そしてそれに納得してしまった自分に。勿論体の構造が違い、生物の生理的にも差異が反映されることは理解し、受け入れています。ですが同じくらい、その差異によって諦めを感じなくてはいけないのはおかしいと捉えています。
今、三叶は関わる相手の性別を無視しないようにしつつもなるべく相手を「人間」として捉えて接し、それぞれの人間の特性や能力を尊重しようと模索しています。三叶自身性別への認識やこれまでの観念との落とし所を見つけられてはいませんが、その模索を諦めないでいきたいです。そうすることで、「女の子だから」と友人が言わなければいけなかったこと、そしてそれを肯定した私への憤りを良い明日へ昇華できたらいいなと思います。
最後に友人へ: あなたの発言を勝手に記事の題材として消費してごめんなさい。あなたの素晴らしさ、当時の良い関わりに敬意を表して、ふざけた人間ながらも真剣な気持ちで書きました。あなたが幸福であることを心より願っています。