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「安藤昌益ー自然真営道」を読む ❾

「良演哲論巻」の部(9)

 歌・舞・謳・能・茶ノ湯・碁・双六・博奕・酒狂ヒ・女狂ヒ・琴・琵琶・三味線・一切ノ遊芸、情流離・芝居・野郎・遊女・乞食ノ衆類、悉ク妄乱ノ徒ラ・悪事、止ムコト無キハ、上ノ侈リヨリ出ヅルナリ。本、聖釈ヨリ始マル所ナリ。天竺・南蛮・漢土・朝鮮・日本、一般ニ是ノ如ク、迷欲・盗乱止ムコト無シ。生キテハ四類ノ業、死シテハ形化ノ生死、免ルル期無シ。少シクモ活真ノ妙道ヲ弁ヒ、改ムルニ非ズンバ、無限ニ迷欲・盗乱絶ユベカラズ。故ニ、是レガ私法ノ世ノ有様ナリ。
 若シ上ニ活真ノ妙道ニ達スル正人有リテ、之レヲ改ムル則ハ、今日ニモ直耕・一般、活真ノ世ト成ルベシ。然レドモ上ニ正人無クンバ、如何トモ為ルコト能ハズ。盗乱ノ絶ユルコト無キ世ヲ患ヒバ、上下盗乱ノ世ニ在リテ、自然活真ノ世ニ達スル法有リ。


 引用部分のはじめは「私法ノ世ノ有様」について、そのあらましが書かれている。
 一切の遊芸や乞食の衆類など、そして風俗、風紀を乱す無用な悪戯、悪事などが「迷欲・盗乱」の具体として想定され、それが無限に絶えずに世間からなくならないのは、ひとえに支配者の驕りに端を発していると安藤は言う。これもまた、もとをたどれば聖人、釈迦に始まったことだとさらに自説を続ける。
 ここで気になるのは、安藤がなくなった方がいいと考えているらしい一切の遊芸、そこに文化・芸術・芸能の類いが含まれていることだ。安藤の筆致からは、これらは不要だというニュアンスが漂っている。これは一般的に言えば、過去、そして現在の常識的な受け取りとは異なっている。常識的には生活に潤いをもたらしたり、精神的な豊かさをもたらすとして肯定されているように思える。
 今、どのページかは覚えていないが、弟子筋に当たる者が安藤の実生活に触れて、芸能事にも人並みくらいの関心と興味を示していたとするエピソードを記した箇所があった。また、盆暮れの届け物のやりとりもそれなりに行っていたようだから、実生活の場と論理的思考の場とは区別していて、記述上の否定が必ずしも全否定を意味するかというとそうではないのかもしれない。
 ただどちらにしても、遊芸などの隆盛、発展が、支配者の出現と軌を一にすると考えていたことは間違いないことのように思える。遊芸の発生が、ではなく、そうしたことの飛躍的な発達がである。
 食料の調達やその生産性が向上すると生活にゆとりが生まれ、それによって人は余計なことをしたり考えたりするようになる。芸能の類いの発生や発達もそうした経済的基盤と無関係ではない。支配と被支配の関係構造が生じ、被支配層の生産によって支配層が支えられるまでになると、支配層には食料生産に要する時間が不要になり、ゆとりが生まれる。そしてその分、観念的世界が膨張していくことになる。安藤からすれば「自然活真ノ世」からの逸脱と「私法ノ世」の到来が、結果として文化、芸術、芸能などの飛躍的発展に結びつき、それ自体がまた人間にいっそうの欲望とそれを達成するための思考力、さらにそれを楽して手に入れるための盗み、戦いを生じさせ、助長させたと捉えられた。
 安藤昌益は、明るいということがよいという価値観、考えることも行うことも善でなければならない、善がよいとする価値観は、あくまでも過去の偉人、聖人によって作られた価値観に過ぎず、一面的で誤りだと一蹴している。明は明暗の一面、善は善悪の一面、暗や悪に目を塞ぎ、明や善だけを取り上げて論ずることは観念上、あるいは言葉の上ではできても、少しも本来的ではないんだよと言う。いや、実際にはそういう記述はないが、そういうところまで考えをつめた上で記述していると思う。
 だから、安藤昌益という人は、精神世界、幻想世界を、人が「生きる」という時の価値基準としては第二義的なものと見なした。
 人はパンのみにて生きるにあらず。だが、同時に人はパンなくして生きることはできない。
 安藤は第一義に後者の「食」をもってきて、次にノーマルな意味合いでの「性」を置き、人としての本質とも言える精神世界や幻想世界をそれ以下に落とし込んだ。
 これが正解であるかどうかは分からない。だが、「盗乱ノ絶ユルコト無キ世ヲ患ヒバ」、こう考えるほかないと思われたに違いない。
 引用部の後半を見ると、現状世界の混迷、混乱を避け、これを改めるためには「上(かみ)」に正人が立たなければならないと安藤は認識していたことが分かる。逆に言えば、「下」にあるものがどんなに正論を唱えても、世の中は変わらない、そのメカニズムをよく知っていたと思われる。現状世界を変える力は「上」にしかない。しかし、そのためには「上」は「自然真営道」を体現し実践する「正人」でなければならず、これまた絶対的矛盾以外ではない。どうすればいいのか。
 「私法ノ世」、「上下盗乱ノ世」に在りながら、「自然活真ノ世ニ達スル法」とはどういうものか。次に安藤はその方法を具体的に説いていく。
 その前に、今思いつくことをメモしておく。ひとつは安藤が「自然活真ノ世」という時、とくにこれを「私法ノ世」と対で考えている時は、「国家」に対しての「社会」というほどの意味合いで置き直して考えられのではないかということがある。そうすると、「自然活真ノ世」に対する「私法ノ世」は「国家」に置き直して考えることができる。
 もう一つの思いつきは、この先に安藤が述べている「自然活真ノ世ニ達スル法」の具体的な記述は、現在という時代に置き直して考えた時に、大きくは憲法を改正する意味合いをもつのではないかということである。現在に向かって、そういうことを提案しているのではないかという気がするのだ。これからそれについて見ていくわけだが、これを念頭に置いて考えてみたいと思っている。

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