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「安藤昌益ー自然真営道」を読む まとめ3

読了後のⅢ
「自然活真ノ世」と「私法ノ世」

 安藤昌益の「自然活真ノ世」とは、簡単に言えば自然法則下の社会で、文字というものが出回る以前の段階の社会だと考えてよいと思う。厳密に言おうとすれば難しくなるが、ここではその必要性がないのでそれくらいに考えておく。
 これに対して「私法ノ世」とは、社会的規範、規則が設けられた社会を指す。この場合、法とは社会的あるいは公的なものであると言えるが、個人で作成されたにせよ多数で作成したにせよ、法そのものは私製であることを免れない。よって、私人がこしらえた法、「私法」と安藤昌益は記述した。また法は制度化されるから、「私制」という造語で安藤は表すこともある。
 安藤は「私法」といい「私制」といい、天道を盗むものとしてこれを嫌った。結論からすれば、安藤昌益は「私法ノ世」に進んだ人間社会を「自然活真ノ世」に戻すべきだと提唱した。「私法ノ世」における人為の不自然が、後世にさまざまな歪みや矛盾や軋轢を持ち込み、戦乱や混乱やさまざまな害をもたらす元凶となったと考えたからだ。「自然活真ノ世」には、それほどの規模の害悪のようなものは生じなかった。小さな規模のものはあっても、自然淘汰的にそこでは解消されていたと考えたに違いない。だが安藤は、自分でも、一足飛びに「自然活真ノ世」に戻ることができるとは考えていなかった。そこで「私法ノ世」にありながら、あたかも「自然活真ノ世」であるような社会というものの有り様を想定し、記述した。具体的には「私法盗乱ノ世ニ在リナガラ、自然活真ノ世ニ契(かな)フ論」となる。
 分かりやすくいえば、安藤が考えた自然活真の営みという自然法則に沿って、その範疇内で社会の仕組み、制度、規則、規範というものを改変して制定しようとするものだ。中では罰則は全廃するなど、かなり踏み込んだ内容を語っていて、全体的に見て通用しそうにない。が、しかし、理屈的には一貫しているように見える。

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