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「番外編 兵庫県問題に垣間見るひとつのこと(精神の過剰と心の衰退)」

 だいぶ前になりますが、中高生が起こした事件があって、その際にその子らが何を言ったかというと、「未成年なので罰せられない」というようなことを言った訳です。ぼくはちょっと驚いたんですが、とにかく、『ああこんなところまできたんだ』というように思いました。要するに法律を逆手に取るというやつです。で、これって、ある意味「賢い」ってことです。子どもって賢くなってるって思いました。誉めてるのではありません。
 みなさん「知」は有用だと、一面からしか見ないようにしていますが、表裏で、こういうことも引き起こすものだと言うことを目の当たりにしたはずです。目の当たりにしても、あまり切実には感じていなかったかも知れません。
 その「知」は今、兵庫県問題の渦中の人、立花孝志と斉藤元彦が体現していますね。「法律上問題がない」というやつです。
 すべてのことを法律の問題に還元するという手法、戦略をとっています。これは要するに先の中高生の発言と同じです。立花も斉藤も先の中高生と同じレベルに退化していると言ってもいいし、逆に先の中高生が成長して立花や斉藤になったと考えてもいいと思います。
 ぼくは、立花や斉藤が、つまり政治家にもなっている大の大人が、先の中高生レベルに退化したんだと考えます。すべて法律に還元して、それですむんだと、世の中を社会を、高をくくって見下ろしているというように思います。
 今すぐに思いつく、ぼくなりの一言で言えば、頭は成長しているけれども心が成長していない、育っていないというそのことです。あるいは精神や理性の部分だけ発達して、その分、心の発達が阻害されている、そう言うようなことです。そういうことを思います。道義などというものは、成長の過程で、親兄弟、友達や隣人、周囲の人々との接触の過程で培われ、心に育まれるものです。それは教科書を読んで身につくものではない。ふつうに生きていくことの中で、自ずから備わるものだと言ってもいいでしょう。立花も斉藤もそこが欠けているように見えます。そういう成長の仕方、発達の仕方をしていない。偏奇な成長、発達の仕方をしていると思います。
 しかも見ていますと、彼らを支持し、共感する人たちが少なからず存在しているようです。そうして、それらの人々はまた、自分たちの側に本当の「知」はあるのだと「知」のレベルを競い合っています。要するに偏奇の共有です。
 精神の発達のひとつの典型が、ここに表れているような気がします。道義などという明瞭ではない概念よりも、法律を根拠に、これには従うというような考え方がなされています。法律至上主義です。
 「精神の過剰と心の衰退」。ぼくはそう捉えますけれど、その傾向はますます勢いを増していくように思えます。三木成夫さんをはじめ、ずいぶんと警鐘を鳴らす人たちはいたのですが、またその声に同調してぼくらも声を上げてきたつもりですが、いかんせんその声は大向こうには届かなかったと言うことです。

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