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「安藤昌益ー自然真営道」を読む ⓯
「良演哲論巻」の部(15)
安藤昌益の言う「自然活真ノ世」とは、具体的、実際的には稲作を中心とした農業社会のことである。広く言えば今日言うところの第一次産業社会となるが、その核はあくまでも農耕である。
△凡テ田畑ニ成ルベキ土地ニ、八穀ノ類生ズ。穀精ガ男女ト生ル。
故ニ山岳遠ク、広キ地、用水ノ便ル処ニ、町・邑作ルベシ。諸侯ハ、軍戦ノ恐レ無ケレバ、城作リ無用ニシテ、町屋ニ作ルベシ。山近キ所、川水有リテ、田畑ト成ルベキ所ニ、村里ヲ作ルベシ。海辺ハ、水便・河川流レ入ル地ニ、邑村作ルベシ。諸国・転下、凡テ水便有リテ田畑ト成ルベキ所ニ、邑村ヲ為スベシ。
材木ハ深山ヨリ採ルベシ。山近キ所ハ、山木ヲ採リテ燔木ニスベシ。山遠キ所ハ、田畑ニ成リ難キ岳野ニ林ヲ立テ、先ニ茂ルヲ採リテ燔木ニ為シ、採リテ跡ニ小木ヲ植ユベシ。林ノ絶ヘザル様ニ之レヲ続クベシ。
山里・海辺ハ畑多ク田少ナキ処ノ者ハ、粟・稷・秬・麦・蕎多ク米少ナク、直耕シテ食フベシ。広原、田多ク畑少ナキ処ノ者ハ、米多ク粟・稷・秬・麦・蕎少ナク、直耕シテ食フベシ。莢穀ノ類、大豆・小豆・角豆、仰豆、能ク耕シテ味噌ヲ作リテ食フベシ。麻綿ヲ耕シテ織リテ衣ルベシ。美食・美衣、全ク之レヲ禁ズ。
稲・黍・大麦・小麦・大豆・小豆・粟・麻の8種の穀物の類いは、すべて田畑に適した土地に生育する。人が穀物を栽培し、これを主食とすることは理に適ったことなのである。こうした穀物と人の居住空間は密接不可分の関係にある。さらに穀物と人との切っても切れない関係から言えば、人は穀物によって成長し、成人してやがて子を成す。極論すれば、人とは穀物の精の変様体であり、穀精が変化して人になったのだとも言える。
安藤昌益は、はじめの2行でおよそこんなことを言っているが、ここで人は「男女」と表記される。男女と書いてヒトと読ませるわけだが、安藤にとっては男女の性差は交換可能でかつ本質的には同一と考えられているのでこのような表記になる。
こういうところは素直に納得しがたいが、理屈で考えるよりも、例えばある種類の魚で所属する群れが雄だけになった場合に雄が雌に変わることがあるそうで、そういう例を想起する方がよいと思う。男女、雌雄の二別が絶対的なものではないというよい例である。
さて、穀物の生育地と人の居住地との密接な関係を述べた上で、であるから市街地は山や丘が遠く、広々とした平野部の水利に便したところに作るべきであると続く。
為政者や役人が考えるところに踏み込んで、事細かに安藤は語っている。別に誤っているとかではないが、こういうところは安藤にしても専門外なのだから書かなくてもよいのにと思う。読み流してよいところだが、逆にこちらの筆の進め方で難儀するところでもある。
○山遠ク海辺ノ者ハ、其ノ近所ノ原岳ヲ見テ林ヲ立テ、屋材及ビ燔木ニ為ベシ。海近キ邑ノ者ハ、海水ヲ煎ジテ塩ヲ採リ、諸国ニ出シ、米粟・穀類ニ易ヒテ食フベシ。
いちいちこんなことまで言っている。
だいたい安藤が言うまでもなく、山里や平野や海辺にすむ人たちは、ここで言われていることと同様のことをこれまですでに行ってきている。取り立てて目新しいことは何も言っていないと思う。誰もが考えつきそうなことを考えているだけだ。
○上主ノ住処ハ、広原・中国ニ町屋ニスベシ。帝城・宮殿・美屋ハ無用ナリ。 金銀ハ本、山石ノ脂ニシテ、乃イ石瓦ナリ。故ニ通用ヲ止メテ、菜草一種ニテモ、売買ノ法、堅ク停止ス。
ここでは統治者の住居は国の中央で平野部に置き、町家並みの質素な作りにせよと語っている。城や宮殿や豪邸などは無用という件と合わせ、安藤らしさはある。
後半の金銀についての見方も冷めていて、瓦礫と同然だという指摘もまた安藤らしいと言えば言える。希少で鋳造すると美しくもあり、これを瓦礫と同じという見方は一般的とは言えない。ただ安藤は無理して無関心を装っているようではない。今のところ金銀を貴重と感じ考えるのは人間だけで、おそらくそこには感覚と観念や概念などが加担しているのであろう。その点、安藤は現実的、即物的で、人間的また主観的な見方考え方を排そうとする傾向がある。元々の資質がそうなのかというとそうではない気がする。「自然真営道」などを考え、書き進む途次に鍛えられた安藤の知が自分を変えてしまった。
自分の血肉となったその知が、金銀を瓦礫に同然としか見られなくなった。多分そこに嘘はないのだろう。ただ人間の欲望は真理や知を凌駕するもので、知をもって留めることは不可能である。言わばそれが人間的であるとするならば、安藤の知は人間性のインポテンツである。安藤の知が描いた理想は、社会に安心と安寧、そして平等を生み出すかもしれないが、社会の進化や発展、活気や刺激とは無縁である。そういう気がしてならない。もちろんそれでもいいのだが、それが本当に理想かと言えば肯定することに二の足を踏む自分がいる。つまり依然としてよく分からない。