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「安藤昌益ー自然真営道」を読む ❺
「良演哲論巻」の部(5)
「良演哲論巻」について、第一の「良子門人、問答語論」は前回で読み終えたことにする。次に「私法盗乱ノ世ニ在リナガラ、自然活真ノ世ニ契(かな)フ論」だが、これは本論考の最初に、少しだけ取り上げてコメントしている。が、しかし、ここでもう少し丁寧に読み進めてみたい。
△無始無終・土活真・自感・四行・進退・互性・八気・通横逆・妙道ハ、転定ニシテ土活真ノ全体ナリ。 其ノ妙序、転ハ定外、定ハ転内ナリ。外、転内ニ定備ハリ、内、定内ニ転備ハリ、転ノ性ハ定、定ノ性ハ転ニシテ、転定・互性・八気・通横逆、日月互性、回ト星ト互性、運回一息止ムコト無シ。万物、生生無尽、是レ活真・転定ノ直耕ナリ。 ○是レガ小ニ男女ナリ。故ニ外、男内ニ女備ハリ、内、女内ニ男備ハリ、男ノ性ハ女、女ノ性ハ男ニシテ、男女互性、神霊互性、心知互性、念覚互性、八情、通横逆ニ運回シ、穀ヲ耕シ麻ヲ織リ、生生絶ユルコト無シ。是レ活真・男女ノ直耕ナリ。 転定ハ一体ニシテ上無ク下無ク、統ベテ互性ニシテ二別無シ。故ニ男女ニシテ一人、上無ク下無ク、統ベテ互性ニシテ二別無ク、一般・直耕、一行・一情ナリ。是レガ自然活真人ノ世ニシテ、盗乱・迷争ノ名無ク、真侭・安平ナリ。
全集ではこの論は八つに分けられていて、冒頭引用箇所はその〔1〕の全部である。
ところで、目録に示された「私法盗乱ノ世ニ在リナガラ、自然活真ノ世ニ契(かな)フ論」について最初に考えておきたい。
まず「私法盗乱ノ世」とは何かだが、題名の現代語訳には、「私欲にもとづく階級制度により、搾取・争乱が絶えることのない現実社会」と記述されている。「私法」が「私欲にもとづく階級制度」と考えられているようだ。ここまで安藤の記述を読んできた限りでは、この訳に特別の不服はない。しかし、階級制度という言葉には、やや共産主義、あるいはマルクス主義寄りの言葉遣いではないかという懸念がある。訳者がそういう立場というよりは、こういう言葉遣いが時代的に関心を持たれそうだから使った、という理由ではないかと思う。これは自分で考えてみてもうまくいかないが、あえて自分にしっくりくる形に直して言えば、「個人的もしくは私的な恣意で作られた共同規範」くらいに思えばいいかなと考えている。国全体の規範となるとつい公的規範と受け取り逆らえないもののように感じてしまうが、もともと天に存在したというものでもなく、時の統治者周辺で相談して作り、最終的にはトップの統治者の承認の元に公布されたものだろうから、それは個人的もしくは私的と考えて差し支えない気がする。ちなみに、これは明治憲法であれ第二次世界大戦後の日本国憲法であれ、いずれ統治者サイドの思惑あるいは意図や意思や思惑が入り込んでいるだろうから、民主的な手続きを踏んでいようがいまいが同じで、厳密に考えて個人的もしくは私的に作られたとするほうが妥当だと思う。
もう一つ、ここでは「自然活真ノ世」という言葉について考えておかなければならないと思う。これも安藤昌益独特の用語で、現代語訳には「自然の法則そのままの社会」と記されている。ここの「社会」は人間社会のことで、これが自然の法則そのままとなれば、社会規範などもごく初期の自然発生的なもの。つまりは国家以前の共同体社会、地域社会的なものが思い浮かぶ。昌益が文字や書物を毛嫌いしていることを合わせ考えれば、先史時代まで遡る必要があるかもしれない。いずれにせよ、昌益の「自然活真ノ世」とはそれくらいまでの射程を考えさせるもので、それくらいまで遡れば人工的なものが一層希薄だとか、動物性に近かったとか、より自然に密着した形で生活していただろうとか、大規模な戦闘もなかっただろうとか、ほとんど貧富の差というものもなく平等に生活していたんじゃないかとか、いろいろに想像される。もっと言えば殺し合いとか盗みとか、支配や被支配、貢納制度などもなく、ある意味で理想的な社会だったんじゃないかとも考えられる。安藤はもちろんこの「自然活真ノ世」に理想社会を見ている。
さて、こういうところから先の目録の小題に戻って考えると、その意味するところは、「統治者の恣意によって作られた制度や規範と、盗乱が盛んな現実社会にあって、まるで一切そういうもののない理想的な自然社会、平等社会にする話」、くらいのことになるかと思う。大げさに言えば社会変革論、革命論ということになるかもしれないが、内容的には血なまぐさいものではない。
さて、小題についてはこれくらいのところで、ここから引用した冒頭部分について考えていきたい。
初めに、安藤は宇宙全体の成り立ち、構造について言及している。まず、宇宙には根源的物質として元基、すなわち「土活真」なるものが存在すると想定され、それ自体に内在するエネルギー運動が様々に活動して、宇宙全体を構成しているとする。宇宙全体を生成し、なおかつその生成活動は止むことを知らず、次々に万物を生み育て、尽きることがない。そのおおもとが「土活真」だと言っている。
これは現在の一般人の感覚としてみれば、「素粒子」に類似する捉え方なのだろうと考えて大差ない気がする。またあったとしてもそれは専門家や専門領域の問題で、ここではこだわらない。
いずれにしても、ある元になるものがあって、単独であるいは結合して、空間や物質を構成することになる。
安藤にならえば、天や海や大地、さらに太陽、月、星々はみなこの「土活真」を元基としてなるものであり、それぞれに現象としては異なる姿や形を示すが、要素としては同一だということである。
この「土活真」の絶妙な配分と配置、そして運動性は人間をも生み出すことになり、よって人間には宇宙を凝縮して小規模にしたものという性質の同一性が内在すると考えられている。
そこで安藤は人間の男女も見かけは違うものの本質は同じで、対なる関係として関係の内部では互いに対立しながら、共時に依存しあう矛盾した関係を結ぶものだとしている。
また、こうして人間にそして人間の男女に備わった「土活真」は、人間においての食の行為、性の行為を誘発し、働きかけ、とりわけ「食」に関しては進んで稲作栽培に至った。安藤はこれを「直耕」の言葉に凝縮し、人間のする自然生活の上限と見なし、宇宙全体から人間生活を一本に貫く「土活真」の生成活動として認識可能であると考えた。「土活真」の生成活動、すなわち「直耕」、これこそが宇宙規模の大法則である、と。
引用の最後部は、このように考えてきての論理的に当然の帰結である。
天地は一体、男女にして一人。上なく下なく、相互に関係し合いながらそこに尊卑の差別などありようがない。ただひたすら「土活真」の生成活動に準じ、「直耕」を行うのみ。これにより、人間社会は共通の営みとなり、共通の感情が生まれ、互いに理解し合って暮らせるようになる。
これが「自然活真人ノ世」であって、そこには搾取や収奪、これに対する反乱、あるいは陰謀、術策、諍いなど存在しようがない。もちろん存在しないものであればそれらの言葉もまた死語となって、人々の知るところではなくなる。ただ活真が尽くされるばかりの平安な世界となるのである。
さ て、安藤の論述の要諦は、人間の理想的社会とはどういうものかであって、記述したところの一々の真偽ではないと思える。誤っているところは後世にこれを訂正すればよいのであり、誰もやったことのない世界認識と把握の上に立って、上下差別のない平和で平穏な世界や社会の希求の、これは記述である。
冒頭の記述からは、かつての昔にそれは存在していたことが言外に述べられている。「自然活真ノ世」がまさにそれで、人間が自然人に徹していた頃の社会だ。その理想社会はかつて存在していたが失われた。
安藤のこのような認識には賛否が起こるだろうが、この認識には当時の社会状況が深く関係している。少なくとも安藤にとって、当時の社会は平和でも理想的でもなく、変わらなければ、変えなければと切迫感を以て感じられる状況にあったのだと思う。そこで過去の歴史に学び、理想に近いのはどこかと訪ねていった。そして過去の「自然の世」である。安藤の記述はだから、次にどうしてそれが失われたかに言及していく。