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「安藤昌益ー自然真営道」を読む まとめ11

読了後のⅰ 安藤昌益の余韻③

 安藤昌益における「直耕」、すなわち穀物栽培における耕作行為は、人類の食生活史上最高度の到達点だという考えが安藤にはあったように思える。これによって食糧の安定供給が可能になった。他の生き物の食事情を考えれば、これがいかに画期的かが理解できる。

 生き物の特性は「食と性」にあるとされるが、「食」に関して、これ以上ないという形で供給が確保されることになったのである。

つまり個体維持の側面で、人類にとって一つの解決が見られたということでもある。他の哺乳類などを見ると「食」の問題は未だに切実な課題で、食うや食わずの日々で明け暮れているように思える。

 人間は耕作して穀物を生産し続けたなら、とりあえず生き物における「食」の問題はクリアしたことになる。これは生き物としての人間の最大の課題を解決したことになるから、ある意味では人間は田畑の耕作、すなわち「直耕」以外に苦労して為すべきことは何もないと安藤は考えた。

 もっと極端に言えば、「直耕」から離れていくにつれて人間は駄目になっていくと考えた。人間の価値ある生き方を「直耕」に留めおこうとしたのである。

 安藤昌益の生きた江戸時代、田畑を耕作し穀物を生産する農民の数は8割を超える。こうなると農業に携わっていることはごくふつうのこととなり、このふつうが価値あることだということにもなる。

 世間一般の常識に反し、安藤が最も駄目な者たちだと批判して見せたのは、後世に偉人、聖人と遇される人たちについてであり、釈迦も含め、錚々たる人格者、学識者、為政者たちが安藤によって否定された。さらに学問、芸能、芸術に携わる者たちも根こそぎ否定された。それらはみな真に価値ある生き方というものを理解せず、人々を誤った方向に導き、誘い、世の中に盗みや騒乱を招いた元凶になったと指摘した。

 彼らはみな自身によっては耕作して食料を得ることをせず、税や教授料の形で他者の生産物を横取りし、逆に生産者以上に生産物を手にすることとなった。そういう仕組みの元でぬくぬくと「不耕貪食」、それを恥じることもない。生き物として人間として、真に高級な生き方をしていると言えるのはどちらであるか。もちろん安藤は人々をだまさない、人の上に立たない、そういう「直耕」の人たちを価値ある生き方、高級な生き方をしていると考えたのである。

 最終的に安藤は、万人に平等に耕作地を与え、食は自給自足でまかなう社会の仕組みを考案した。これはわたしには大変魅力的な考え方に思われるが、第一次産業従事者がすでに1割にも満たないこんにちの社会においては、実現不可能と見做されるに違いない。だが、一つの理想社会をイメージする時、こういう考え方、耕作地を再分配するという考え方は、いつまでも光芒を失わずに人々の脳裏に存在し続けると思われる。

 ここで少しだけ補足しておきたいが、「直耕」こそが人間生活の原点のように安藤は言うが、これは万人が農民たれと言っているのではない。逆に農民たちに向かっては、富を得ようとして耕作地を広げてはならないと戒めているくらいだ。基本は、家族の食い扶持をまかなう程度の耕作地を所有するだけでよいとされ、武士であろうが商人、職人であろうがみな同様に耕作に携わるべきとされている。つまりそこだけは平等に設定しておこうというのが安藤の眼目である。

 「直耕」は、狭い意味では直接的に田畑を耕作することを指すが、少し広げて言えば生活を再生産する基盤でもある。「直耕」して、あとは生活の細々したところまで、自分の頭と心と体を使い、没頭するように関わり合っていく。安藤は価値ある生き方というものをそういうところに見いだしている。

 当時の社会も現在社会も、遠くは聖人君子や釈迦といった人々の思想や考え方の流れのそのまた影響下にあるから、安藤とは違って価値あるものは生活の外に、またかけ離れたところにあると考えている。安藤の考えはそれらとは真っ向から対立し、言ってみれば生活の内側に向かって思想していくというようなものだ。「直耕」を軸として生活を営むそれ自体が学問、思想、芸術などに携わるよりも、はるかに優れて大事なことであり、同時にまた正しい生き方であると述べている。

 安藤の主張するところを読み込んでいくと、思想すること、学問することがすでに過ちであるという考えがうかがわれる。そんなことよりも「直耕」一筋、生活の細々したことに意を用いてふつうの暮らしをすることが何よりなのだと。考えるな、自分の考えを過信するな。そのようにも聞こえる。

 しかしながら安藤の「自然真営道」は、自身のそうした考えを裏切り、否定すべき文字を用い、否定されるべき思想、哲学の記述をあえて行っている。もちろん安藤はそれに自覚的であり、学問、思想などの書物の誤りを糺して知らしめるのには、同じく学問、思想でもって糺すことが効果的としている。そしてそういう意図でもって「自然真営道」は書かれた。つまり、本当はいやなのだが、止むに止まれずにこれを為すのだと安藤は言っている。功成り名を遂げる為の学問、思想ではけしてなく、本来やるべき価値のないことを自分はするのだ、と。

 ここで、読む側にとってはある戸惑いを感じないではいられない。一切の思想的営為を否定する書そのものは、それ自体が否定すべき思想的営為からなっている。言ってみれば読まれることを拒否した書だと言える。しかし著述されている以上は、これを手にしたものは読むということになるのは当然である。

 読者は読んでどうするかが問われる。著者である安藤の考えに従うなら、記述された思想世界から決別すべきである。一切の思想、知識、学問の世界に背を向けて、「直耕」そして生活世界に埋没していくことが要求されているからだ。が、それはまた、別の意味で思想的言説に影響されたということになる。

 既存の思想、学問を全否定する安藤がどうして自らのそれを著述したか。書き著したりせず、沈黙の内にただ「直耕」すればよかっただけではないのか。

 戦後最大の思想家と謳われた吉本隆明は、

安藤昌益はあれも駄目これも駄目とすべての思想を否定しているように見えるが、「正誤」や「真偽」ではないある観点から、価値ある考え方、価値ある思想という捉え方もできていたのではないかと述べている。そしてそれは吉本流にいえば、精神の深さ、浅さという観点のようなものに近いとしている。つまり、安藤はすべて「正誤」でいえば「誤」、「真偽」でいえば「偽」と全否定しているが、価値軸として精神の「深さ」「浅さ」で見る見方が、安藤にもあったのではないかとしている。それから言えば、仮に本来的に「誤」や「偽」に過ぎないとしても、この思想は精神の深いところで為された思想だというような水際のところで、かろうじて思想の成立、存在意義を保とうとしているかに思える。これは、街灯の下に散乱する無数の死に体の思想群から安藤や吉本自身の思想を峻別し、また救脱する視点のように窺われる。

 深いところで為された思想、芸術、学問などだけがかろうじて成立しうる。そして深浅の目安の一つとして、「直耕」すなわち根本的かつふつうの生活を最大価値に持ち、それがいかに内在化されているかが問われることになる。

 が、これで納得しうるかと言えば、わたしはまだ疑心暗鬼の途中にある。依然としてよくわからないし、この先の展望も見えない。そしてここでの考察はとりあえずここまでとする。

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