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「安藤昌益」を読む⑨⑩

安藤昌益を読む ⑨⑩


 小学生の頃までは、近所、親戚の家のほとんどには囲炉裏があったと記憶している。だから、安藤昌益が記述する、囲炉裏に鍋を吊り下げ煮炊きする光景はよくわかる。もちろん、竈もふつうにあった。
 父の兄が後を継いだ近くの実家には土間もあり、すぐ脇には柵が設けられて馬がつながれていた。まだその頃まで、生活様式という点で、江戸時代はそれほど遠い昔ではなかったのかも知れない。記憶にはないが、3歳か4歳くらいの時の写真があり、そこでは着物と草履姿で遊ぶ自分の姿があった。
 ところで、実際に囲炉裏や竈のある生活を見て体験したことがある者としても、天地の生成活動を伴う運行と囲炉裏や竈を使っての煮炊きとが、同一原理で動いていると見ることは難しい。
 言葉の上では、活真の四行八気の運回が天地万物、また生命を生み育成し、囲炉裏や竈が材料となる穀物や野菜を食べ物に換えるそのことが、生成行為として類似するとは理解できる。しかし、どうしてもそこに実感を込めることが出来ない。
 安藤昌益は、常日頃、人家の囲炉裏や竈を見て、そこに活真の運動が表れているのを感じたと言う。そういう安藤の姿を思い浮かべてみる。薪が燃え、鍋から湯気が立つ。炎を強くしたり弱めたりしながら、調理が完成されていく。安藤は他人の家でばかりではなく、自分の家でも幼い時からそんな光景を目にしていたに違いない。そのたびに、安藤はその光景に何か惹かれるものを感じていたのだろうか。さらりと流して見ていたのだろうか。それともファーブルが昆虫を観察するように、飽きずに見入っていることもあったのだろうか。いずれにしても、そんなごくありふれた日常の光景を、宇宙の運行及び万物の生成過程と同じだと、安藤昌益以外の誰が考えつくだろうか。それは類い希なる卓見と言ってよいものだろうか。あるいは過剰な思い込み、根拠のない引き寄せの類いか。その発想は飛躍しすぎていて、常人には伝わらないのではないか。
 こうやって考えてくると、安藤昌益はどうしても普通じゃないと思えてくる。おかしな人で変な考え方の人だと思う。理解しろという方がおかしいし、はたして身近にいる人はどう見ていたのか。安藤が自分の考えていることを口にしたところで誰が共感するだろうか。多分誰もいなかったし、いるはずがない。もちろん例外があり、数人の理解者はいたようだが、どうしてそういうことになるか見当がつかない。常日頃、安藤は自分の思考が他者に通じないとわかっていたはずだ。そのことに悩み苦しみもしたはずだ。ただ彼の博識と医者としての実力が八戸という地域にあって、いくぶん名士扱いされ、徐々に理解者を得ていったのかも知れなかった。
 ずいぶんと道草を食ってしまった。不十分にしか読み解けないのだが先に進んでいこう。


 故ニ転定ノ八気・互性ノ妙気行ハ、悉ク炉内ニ備ハルナリ。是レ何ノ為ゾ。人、穂莢ノ穀ヲ煮テ食ワンガ為ナリ。転下・万国・万家異ナレドモ、炉ノ四行・八気・互性ノ妙用二於テ、只一般ナリ。此ノ一般ノ炉二助ケラル人ナル故ニ、人ノ業ハ直耕一般、万万人ガ一人ニ尽シ極マルコト、明ラカニ備ハル其ノ証、是レ炉ナリ。


 囲炉裏にも、穀物を煮て食べるために四行八気が働いている。このことはどの国のどの家にも通じ、共有されている。人間というものはそうした炉のはたらきに助けられているもので、したがって、例外なく人間のすべきことは直耕、すなわち田畑を耕して穀物を生産し、これを煮炊きして食することである。そしてその証拠となるのが囲炉裏でありそのはたらきである。
 そう安藤は語る。その語るところはつまり、囲炉裏における活真のはたらきは穀物を食べ物に換えることであり、言葉を換えて言えば直耕ということなのだから、人間もまたそのことに準じて直耕すべきだと言っているのだ。
 そして引用部分のあとには、人間の内臓においても同じ事が行われていて、それ故に囲炉裏のはたらきを教えられずとも知り、それを活用できたのだと述べている。
 ここまで何度も理解に苦しむところを言ってきて、今なおそれは変わりない。しかし、ここには通りいっぺんに読み流してしまえない部分がある。それはやはり直耕の言葉であって、ぼくなりに把握するところでは、安藤はここで直耕以外は何もするなと言っているように思える。人間は田畑を耕して食物となる原料を生産し、これを煮炊きして食べることが「生きること」そのものだと述べているように感じる。「生きること」はそれ以外ではない、と。あるいはそれ以外のことは邪魔なことだと。もっと極端な言い方をすれば、働いて飯を食うこと、飯を食って働くこと、それ以外は何もするなと言っているように思えるのだ。これは当たらずとも遠からずといえるのではないか。
 生き物の特性は食と性にあるといわれている。そのうちの食に限定すれば、人間だけが栽培しこれを収穫するという生産過程を踏む生き物である。ここに動植物との違いがあり、人間らしい生き方とは、とりもなおさずこのことを実践することである。
 仮にこうしたことが安藤の真意だとして、ぼくらはこの考えをどう受け止めるべきだろうか。いや違う、人間はもっと考え、感じ表現する生き物で、豊かな心を持つことが生きることの価値なのだと反論するのがいいか。あるいは、安藤の言うとおりで、生産労働と家事炊事以外の価値なんかあるものかと同意すべきだろうか。ぼくには後者の方が普遍的な生き方に近い生き方に思える。
 もともと人間は原始に近い頃、猿に近い生き方で、採集生活をしていたと思われる。そこから石器を使っての狩猟生活に進み、そして耕作栽培へと進んだ。だから人間といえども事の初めから生産労働をしていた訳ではなく、それはだいぶ歴史が下っての話である。その流れから考えれば、必ずしも直耕、すなわち田畑を耕して食物を得ることが普遍の生き方とは言えない。そして現代、農業従事者は就業人口の一割にも満たない数になってしまっている。つまり現代には通用しない考え方と言ってよい。ではまったく迷妄かというと、そうとも言い切れないように思える。安藤の創出した直耕の概念を、もう少し広義に捉え返し出来ればのことだが。それを吉本隆明のように「大衆の原像」と言えば、それが出来たことになるのかどうか、ぼくにはまだよくわからない。
 言うまでもなく安藤の「直耕」の概念と吉本の「大衆の原像」とに共通するのは、人間の生き方の価値についてであり、ともに根底、根源的なところに、より大きな価値を見ようとする考え方である。余分なものをこそぎ落とし、こそぎ落とし、骨格となるところに価値の源泉を求めようとする。こうした捉え方考え方は、しかしながら依然として少数派であることを免れない。現代にあってはもはや風前の灯火状態にあると言ってもいいと思う。これをどうよみがえらせるかを考えたいところだが、これはもっと先の話になりそうである。


「大序巻」の第二段で、もう心が折れそうだ。解説文にも、


 こうして、天体ー四季ー農耕ー炉ー顔ー感覚ー内臓を結び、宇宙の天涯から人身の内奥まで通ずる「一連」「一感」の運動が系統づけられる。その対応と系統付けの仕方には、稚拙な発想や無理なこじつけをふくみながらも、意図されていることは、客観的自然と主体的営為とをつらぬく普遍的運動の法則の把握にある。 (全集第一巻 大序巻 解説 P59)


とあるように、天体から炉までの過程だけでも、「その対応と系統付けの仕方には、稚拙な発想や無理なこじつけ」の多くふくまれている。
 これが第三段に進むと、顔ー感覚ー内臓の対応と系統性に及ぶが、やはり無理なこじつけという印象を免れない。ただし、これを全くのでたらめと決めつけられないのは、こうした系統付け、対応付けの仕方が、解剖学者の三木成夫の著作にわずかだが類似性を感じるからだ。まったく無縁なる二人の医学者でありながら、人体に対する医師的な感覚というものは似るところがあるんだなと不思議に思う。
 それもこれもひっくるめて詳述するだけの力は自分にはない。そこで、第三段については概要の記述を引用して、深入りせずに進めたい。


第三段階では、人の顔面にある諸器官の感覚機能と、その相互関連性にふれ、それといろりの作用を対比し、さらに季節ごとの農耕作業と対比していく。最後に直耕の哲学を論じ、天体の運行も、いろりの調理作用も、人の感覚機能も、すべてが活真のあらわれだという物質的基礎を指摘するとともに、生産活動での人間の主体性を強調している。
(全集 P77)


 繰り返しになるが、三段目までのところで安藤昌益が言いたいことは、大筋のところは理解できる。概要の記述で言えば、「天体の運行も、いろりの調理作用も、人の感覚機能も、すべてが活真のあらわれ」という点につきる。しかし、それぞれの記述部分について言えば、「稚拙な発想や無理なこじつけ」と思える箇所が随所にある。
 そう思ってみるがしかし、本当に発想が稚拙で、また無理なこじつけで記述を進めているとすれば、もう少し安藤の記述に破綻があってしかるべきだと思える。それが、ないように見える。そればかりか、記述の奥というか裏側というか、確固としたイメージに裏打ちされた自信のようなものまで感じられる記述だ。一気呵成というか、迷いながら書いては訂正し、書いては訂正しという書き方ではない。


 府蔵二於テハ、胃ハ炉内二同ジフシテ、胆ハ薪、肝ハ鍋蓋、小腸ハ燔(もゆる)火、心ハ鍋内ノ蒸ス、大腸ハ釣(つる)、肺ハ鍋、膀胱ハ煮水、腎ハ潤水ナリ。是レガ胃土活真の自行ナリ。
(全集 P77)


 第三段でのこういう記述は、一見して、何のことやらさっぱりわからない。ただし、第二段で、「燔火節(ホドヨ)ク釣モ節ク煖(あたた)ムハ、互性相達スナリ。」とか、「蒸気ト鍋ノ気ト等対スル則ハ、互性ノ妙用相達ス。」とかの記述のあったことを思い出せば、前節が小腸と大腸、後節が心臓と肺の関係を指すので、一概に無関係なことと切り捨てることは出来ない。安藤においては、こうした方程式は自明のことのように扱われている。ただぼくたちにとっては少しも自明ではないというだけだ。

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