「安藤昌益ー自然真営道」を読む ❻
「良演哲論巻」の部(6)
前回の結びで、昌益は「過去の歴史に学び、理想に近いのはどこかと訪ねていった」と書いた。これは、誤りだ。というより、その前後の文を含めて、微妙に昌益を誤解しているのではないかと懸念される。安藤昌益は、こちらが想像したよりはもっと科学的であったかもしれないという気がする。情動よりも理知が勝っていた人ではないか。
すでに見てきたところの「大序巻」冒頭に、次の記述があったことを思い出す。煩をいとわずに読み返してみる。ここまで来れば安藤の記述にも少しなれて、おおよその意味合いはたどれるようになっているはずだ。
▲自然トハ互性妙道ノ号ナリ。互性トハ何ゾ。曰ク、無始無終ナル土活真ノ自行、小大ニ進退スルナリ。小進木・大進火・小退金・大退水ノ四行ナリ。自リ進退シテ八気互性ナリ。木ハ始メヲ主リテ、其ノ性ハ水ナリ。水ハ終リヲ主リテ、其ノ性ハ木ナリ。故ニ木ハ始メニモ非ズ、水ハ終リニモ非ズ、無始無終ナリ。火ハ動始ヲ主リテ、其ノ性ハ収終シ、金ハ収終ヲ主リテ、其ノ性ハ動始ス。故ニ無始無終ナリ。是レガ妙道ナリ。妙ハ互性ナリ、道ハ互性ノ感ナリ。是レガ土活真ノ自行ニシテ、不教・不習、不増・不減ニ自リ然ルナリ。故ニ是レヲ自然ト謂フ。
活真トハ、土ハ転定ノ央ニシテ、土真ハ転ノ央宮ニ活活然トシテ無始無終、常ニ感行シテ止死ヲ知ラズ。其ノ居ハ不去・不加ニシテ、其ノ自行ハ微止スルコト無シ。活然タル故ナリ。常ニ進ンデ木火ノ進気、金水ノ退気ヲ性トシテ転。常ニ退キテ金水ノ退気、木火ノ進気ヲ性トシテ定。転定ノ央、土体タリ。進気ノ精凝ハ日ニシテ、内ニ月ヲ備ヒテ転神、退気ノ精凝ハ月ニシテ、内ニ日ヲ備ヒテ定霊、日月互性、昼夜互性ナリ。
金気、八気互性ヲ備ヒテ八星転・八方星、日月ニ気和シテ転ニ回リ、降リテ定ヲ運ビ、八気、互性ヲ備ヒテ、進気ハ四隅、退気ハ四方ニシテ、四時・八節、転ニ升リ、升降、央土ニ和合シテ通・横・逆ヲ決シ、穀・男女・四類・草木、生生ス。是レ活真、無始無終ノ直耕ナリ。故ニ転定、回・日・星・月、八転・八方、通横逆ニ運回スル転定ハ、土活真ノ全体ナリ。
故ニ活真自行シテ転定ヲ為リ、転定ヲ以テ四体・四肢・府蔵・神霊・情行ト為シ、常ニ通回転・横回定・逆回央土ト一極シテ、逆発穀・通開男女・横回四類・逆立草木ト、生生直耕シテ止ムコト無シ。故ニ人・物・各各悉ク活真ノ分体ナリ。是レヲ営道ト謂フ。
故ニ八気互性ハ自然、活真ハ無二活・不住一ノ自行、人・物生生ハ営道ナリ。
此ノ故ニ転定・人・物、所有事・理、微塵ニ至ルマデ、語・黙・動・止、只此ノ自然・活真ノ営道ニ尽極ス。故ニ予ガ自発ノ書号『自然真営道』ト為ルハ、是レノミ。
さらにここでは特に結びの記述に注目したい。活真の存在と、それが「生生直耕シテ止ムコト無」い運動性に触れた後、天地宇宙、そして人、物、ことごとく活真の分体であると言及し、
此ノ故ニ転定・人・物、所有事・理、微塵ニ至ルマデ、語・黙・動・止、只此ノ自然・活真ノ営道ニ尽極ス。
と述べている。
つまり安藤はここで一切を活真の働きに還元できるものと考えていて、人の言動のいちいちから人間社会に至るまで、活真の動きや働きが及んだものという捉え方をしている。
安藤思想はこれを根幹としていることはまず間違いないところで、さらに安藤はここで活真の神髄とも言うべき「生生直耕」に目を向け、人の生の王道もまたそこにあると考えた。
活真に生成活動が見られると考えるところまではよいとして、活真の凝集体とも言える人において、その生成活動としての直耕が食料の生産行為であると決めつけて捉えたことは、言ってみれば安藤の勝手である。そこに客観的真実があるかどうか、ちょっと疑わしい。安易に結びつけているような気もする。
それはそれとして、ここで安藤の考えの経路に沿って言えば、人間生活、人間社会の根幹にも、この生成活動としての直耕が置かれるだろうことは自然な帰結である。すると、それは理想云々する問題ではなく、当然にそうでなくてはならぬものということになる。
言い換えれば、ごく当たり前にそうであらねばならぬ生き方、そうであらねばならぬ社会のあり方が、そこから導かれてくることになる。「自然活真ノ世」とはだから、人間社会で言えば均しく生成直耕が行われていた時代、世の中、というくらいの意味合いになる。理想でも何でもない。そうでなければならないという次元の異なる話、なのだ。
安藤は、正義の人でも良心の人でもなく、民衆第一の人というわけでもない。そういう倫理的な背景から、一歩抜きん出ていた人とみる方が遙かに的を射ている。ここでは、ひとまずこのことを振り返っておくこととする。