「てならいのうた」8日目
「断片ー表層と深層」
表現の意志や意識の前に初動や初源はあるらしい。わたしたちが今とっさに動こうと意識した時には、すでに脳からの指示や指令が関係各所に送られているということになる。動こうと意志したり意識する以前に、すでに脳内においてそのことが決定され、行動を起こすための指示指令が神経回路を通じて行われているということは、その場合の意志とその意識は後追いであることを意味している。
もちろん、わたしたちは意志したり意識して初めてそうした行動を取るという場合もある。ただその時の意志なり意識なりを一つの行いと見なせば、その意志なり意識なりが生じる以前の何かの動因が内在しているようにも考えられる。そしてそう考えると、意志や意識もまた一つの促しがあって生じたもので、普通考えられるような主体を構成するものとは見なせない気がする。
単純にいえば入力と出力、受容と運動の関係に帰納させることが出来る。アメーバのような原生生物を単純化の代表と考えれば、人間は天文学的に複雑化した生き物の代表と見なせる。逆説的な言い方をすれば、限りなく複雑になった人間の言動を分析的にまた要素に分けて単純化していけば、アメーバ的な原生生物に辿り着く。生命としてやっていることは本質的に変わりなく、ただ存在として大量のエネルギーを要するかどうかの違いを持って存在していると言えば言えるだけに過ぎない。
言葉もまた真性を意味するものである場合とそうでない場合とがある。意志や意識の直接の翻訳である時もあれば、意志や意識の誤訳の表現である場合もある。そしてその違いは受け手にはよく分からない。発する側もそれが自分の「ほんとう」だと誤解する場合もよくある。仲よくなりたいのに、つい憎まれ口をたたいてしまう類いだ。そういう時、言葉は関係をより悪化させる方に働く。反省しても後の祭りで、修復が利かなくなることも多々ある。便利と不便が表裏一体となる。
※「てならい」というのは、勉強とか練習といったくらいの意味合いです。「てならいのうた」というのは簡単に言えば詩の練習、詩の勉強くらいのことです。ですが、本当に勉強するつもりかというと、それは表向きで、それに託(かこつ)けて何をどう書いてもいいんだと、既存の枠を取っ払って記述しようとしています。誰にも迷惑がかからないなら、それでいいかなと。余命幾ばくも無いし、もう好き勝手です。