わたしはなにもしらない。だけど、すべてをしっている
そんなことをふと考えた昼下がり。
世界は情報にあふれている。
どれも真実。だけどどれも虚構。
わたしたちは虚構の中に生きている。
でも、生きているのかすら、ときどき疑わしい。
目の前にいる他者はほんとうに存在しているのか?
そんなこともよく考える。
そして今日はとうとう「時間」すら存在しない可能性が濃厚であることを
受け容れようとしはじめた自分に気づいた。
頭では「そんなこともあるかもな」くらいに考えていたけど
ほんとうに存在しないのかもしれない。
足元がぐにゃりとしていく感覚。
わたしたちは孤独でありながら
ほんとうのひとりにはなれない。
すべては繋がっている。
なんならすべてが自分。
自他の境界線が
わたしとあなたを区別させる。
どの学問で語るか
どの視座で見るか
どの範囲で考えるか
それもひとつの境界線のような気もする。
ぐちゃぐちゃに全部盛りにされた世界の中から
見たいものを自分で選択して見ていく。
みんな同じものを見ているのに
違うものを見ている。
この気持ち悪さよ。
そこに不思議な恍惚感を抱く。
わたしはなにもの。
なんて世界は気持ち悪いの。
そして同時に美しいの。
すべてがあって、すべてがない世界。
どこに線を引くかで意味づけを自由に変えられてしまう世界。
なんて不安定なの。
不安定な世界の中で正気を保ちながら生きている。
誰ともわかりあうことはできない。
だけど本質的には同じ存在。
物質的にも概念的にもきっと同じ。
なにも知らないくせに、知っているかのように語る口。
わたしはなにもしらない。
だけど潜在的にはすべてしっている。
生きてきたプロセスすべて、生まれる前から決まっていたのだから。
知らずして知っているルートをフレッシュな気持ちで進んでいる。
肉体が体験したことは真実。
それはわたしだけの宝物。
苦しみも悲しみも本質的には美しくて尊いもの。
なんて絶望的な世界。すべては自作自演の世界。
(ときどきこうして、どっぷり美しき絶望に浸るのも悪くないね。)