レールにのった人生を踏み外してみた話(闇編)
恵まれた人生を歩んできた。
父は中小企業の社長で日本の上位1%に入る裕福な家庭で育った。
日本に生まれ、生後数ヶ月で母と共に上海に飛び祖母の家で暮らすことになった私は、上海の幼稚園に通い、上海語で祖父母、母、叔父叔母、幼稚園の先生、友達と会話をしていた。私の第一言語は今思えば中国語であった。
4歳になったころ日本に戻り、日本の幼稚園に編入することになった。
その頃の記憶はないが、母から後で聞いた話によると、日本語が話せないため幼稚園では一日中誰とも話さずひとりぼっちでいたらしい。しかし子供の成長は早いものですぐに言語習得をし誰よりも早く絵本が読めるようになった。
受験を経て私立小学校に入学した私は、人生で初めてのマイノリティを経験した。私立小学校は世帯年収平均以上で純日本人のみを家族にもつ子供たちで構成され閉鎖空間であり、最も平坦化された環境、いわば単一民族国家であった。そんな小さな国家においては、日本人とさして区別のつかない顔をもつハーフの私でさえ異質な存在であった。
初めは良かった。私の苗字は日本人の父の苗字であったし、名前も日本語で珍しくなかったため、みんなと同じ普通の「日本人」のクラスメートであった。しかし、小学校には面倒なことに両親の参加する行事が多い。特に母親はそのような行事によく借り出されるもので、私の母親が中国人であることはすぐにクラスメートの子供、そしてその親に伝わった。母はどこでも中国語で話すことを好んだ。今思えば中国語は母にとっての母国語で最も話しやすいそして今まで当たり前に使用してきた言語であるのだから何もおかしくはない。しかし私は母の喋る中国語が嫌いだった。それは日本語よりも響く発声方法であったり、話したときに必ず嫌な目で見てくる周りの人々であったり、とにかく私は周りと異なることを恥じた。
小学校中学年から私は中国語で話しかけられても日本語で返事をするようになり、学校ではお願いだから日本語で話してくれないかと母に頼み込むようになった。なぜならば中国というルーツが原因で虐められるようになっからだ。
当時の日本では反中報道が盛んで世間では中国=悪、中国人は国に帰れという風潮があった(今でもあるが、体感的には当時の方が強い)。子供というものは、見たもの聞いたもの全てを事実として信用するもので、テレビの影響か親の家庭での会話の影響か、中国を毛嫌いして私を異質な存在として認知するようになった。私が何よりも悲しかったのは言葉の暴力であった。中国人は国に帰れだとか、中国人がいかに最低かを集団で責めてきたりだとか、急に優しくなり仲良くなれたかと思えば○○(私の名前)も中国のこと嫌いだし最低だと思うでしょ?と悪いことを言った自覚もなく訊ねてきたりだとか。他にも諸々悪口を言われていたのだが幸いなことに良い記憶しか残らないお花畑脳みそのおかげで覚えていない。
私は自分のアイデンティティを傷つけられ、中国人としての自分を身体の奥深くから抉り取った。当時知識もなく言い返す度胸もなかった私はただ言葉の暴力を受けるがままに、自分自身の半分を否定し、嫌いになり、この世から消し去ってしまったのだ。今思えば私の反抗期が早かったのは、自分の中で既に消し去った中国人としてのアイデンティティをもつ中国人の母を敬遠していたからだろう。
小学校時代には仲の良いグループから急にハブられるといういじめも経験したが、悪い思い出はすぐに記憶から消えるタイプなので階段から突き落とされたこと以外は覚えていない。
しかしそれでも私は一度も不登校にならず、数年間皆勤賞であったのだから今よりも精神が強かったのかもしれない。
中学校生活も小中高一貫のため、大きくは変わらなかった。中学生にもなると人間的に成熟するのかいじめに遭った記憶はない(私の知らないところであったのかもしれないが記憶していない)。
この頃から自我を持ち始めた私は高校受験を決意する。縛られた校則の無意味さへの反骨精神、自由への渇望が根源にあった。さして勉強は好きではなかったが負けず嫌いと根性と要領の良さで成績は良かったため、偏差値50程度の中学校にから、偏差値70程度の高校という高みを目指した。
小学校の頃から個別塾には通っており、大学生のバイトの先生と雑談をして授業が1コマ終わるという今思えば親泣かせの緩い毎日を過ごしていた。それが受験を決めてからは毎日下校後に過去問を解き、自習室で深夜まで勉強するという毎日に変わった。私の中学は中高一貫のため別の高校に進学することを原則禁止しており、そのためか塾に通うことも禁止されていた。そんな中で受験勉強をするということは実に根性のいることで、仲の良い友達が全員同じ高校に進むのに自ら進んで苦しい思いをしてまで輪を外れるという意志の強さが必要だった。
そんな日々を過ごす中個別塾では小学生の時に担当してくれていたベテラン社員の先生がまた授業を担当してくれることになった。その先生は冷淡で厳しいため小学生の頃から苦手としており、また担当につくと聞いて恐々としていたことを覚えている。いつも厳しく手加減をせず、授業以外のことは話さない先生であったが、だんだんと雑談を挟むようになり信頼や安心感が芽生え始めたころ、ラインと電話番号を交換することになった。
中学生にとって先生という存在は特別であり、プライベートの人格が謎に包まれているからこそ、「先生」以上でも以下でもなく、神秘的な存在であったように思う。
私の塾では、大学生のバイトの先生が辞める際に仲の良かった生徒と連絡先を交換するということが行われていた。しかしそれも同性間、また高校生と大学生バイト講師という年齢の近い間柄で行われていたことで、異性間、かつ14歳と30代の社員の間柄ではあり得なかった。だからこそ私は連絡先を聞かれたときに驚きよりも嬉しさが勝った。それは他の生徒にはできないことが自分にはできたという優越感であったり、先生のプライベートが垣間見えたことの面白さであったのだと思う。
連絡先を交換した日の深夜、先生から電話があり今家の下にいるから降りてこいと言われた。私は意味が分からず親が寝ているので出たら起こしてしまうし無理だと断ったが、バレないように音を立てずに降りてこいという先生の説得に逆らえず家を抜け出した。今思えば住所など塾講師であればいくらでも書類に目を通して調べられたのだろう。
私たちはただ歩きながら話し、いつの間にか漫画喫茶の前にいた。当時の私は漫画喫茶に入ったことはなく、漠然と図書館のような場所を想像していた。店内は薄暗く、入口横にレジがあり、数時間パックにするか数日滞在パックにするか店員と先生がやりとりをしているのを聞きながら私は予想が大きく外れたことに気づいた。シャワーやドリンクバーがあるし個室がずらりと並んでいる。私にはそこが一種の居住空間に見えた。今でいうネカフェなのだろうが、当時の私の辞書にその単語はなかった。
先生は当たり前のように個室に入り、私も後ろからついて行った。入ってすぐに先生が服を脱ぎだしたため私は慌てたが、寝てる人もいるし静かにしないといけないからと咎められたため黙った。ここから記憶が断片的になるのだが、結果的にいうと私はそこでレイプされた。
抵抗しなかったのか、逃げられたのではないか、レイプ事件の報道の度に上がる世間の声に対して思う。「できなかったのだ」と。私は嫌なことはすぐに忘れてしまう方なのでその当時の私の細かな心情は覚えていないが、14歳の女子生徒には、30代男性教師に逆らうことは不可能だった。それは体格差という物理面以上に、先生と生徒という圧倒的な上下関係における精神面で不可能であった。
この頃から私は自傷をするようになった。深夜に実家のバスルームに鍵をかけ、疲れて意識がなくなるまでリストカットをした。切っているときは不思議と痛くなかった。ただ眠りから覚めた後の痛みは強烈だった。私はいつも使うカッターをぬいぐるみの中に隠していた。
ある朝母の「何これ!何してるの」という大声で目を覚ました。いつものように手首の血を洗い流してからベッドで寝たはずが、何これと叫ぶ母の目線の先の私の腕には大量の血の塊がついていた。寝ている間にいつもより出血したためにバレてしまったらしい。私は「あ。。」ということしかできなかったが、それを聞くか聞かないかのタイミングで母は部屋を出た。その後母から腕の傷について聞かれることは一度もなかった。私はそれに安心すると同時に寂しさと悲しさを感じた。書くまでもないが、私に関心を持たないことに落胆し、空虚を感じた。
レイプ時に写真を撮られ、私はその後再三にわたって身体の関係を持った。人間とはおかしなもので、受け入れられないことは都合の良いように脳が再解釈を行う。だんだんと私は裸の写真という武器や親にばらすといった脅迫の上で成り立っている関係であることから目を反らし、付き合っていると錯覚するようになった。またその時の私には離人感覚があり、全てがふわふわとしていて現実が現実ではないような、目に見えるモノ全てに靄がかかっているような、そんな世界にいた。先生と付き合っているという錯覚は2、3年後に当時を回顧するまで続いた。
私の潔癖、不眠が悪化したのもその3年後、大学生になってからだ。全てに因果関係があるとは思わないが、多少なりとも影響しているのだと思う。
そんな中学3年生を過ごす当時受験生であった私に受験勉強など務まったのか不安になるが、私は無事第2志望の高校に合格した。今思い返すと脳の防御機能で事実を錯覚し、現実を現実として捉えずにいてくれたおかげだろう。
私はこれを書くことによって自分が可哀想な人間とは思わない。むしろ人間誰しもこの程度の傷を背負ってきているが、表面的には見えていないだけであると思う。
当時の私はたくさん苦しんだのだろうが、幸いにも私の脳は高性能で現在の私を傷つけてこない。だから私は過去に囚われずに今を生きていける。本当は過去に囚われているのだとしても、「今を生きている」そう信じることで私たちは今を生きることができる。
前回のNoteを書いてから時間はたっぷりあったはずなのに1ヶ月も過ぎてしまった。休職期間の私はだらけてばかりで今も履歴書の志望理由を考えていたはずがいつの間にか4000字越えのNoteを書いている。社会復帰はまだ先か、、笑