修論提出を終えた所感

修論を提出したので、まだ発表やら最終提出は残っているけれど所感を残しておこうと思う。

修論を書くのは辛いとから大変とかいう話が付きまとうけれど、個人的には想定内の範囲だった。「もう二度とやりたくない!」とは思わない。研究自体もようやくまとまり始めてきたという状態なので、この状態で研究から離れることになったら寂しい思いをしたと思う。

そんなに苦にならなかった理由としては、大きく二つあると思う。先輩の先行研究があったことと自分の経験値が溜まっていたことだろう。

自分の研究は先輩が代々やっていたものを引き継いだものだから、先輩の修論を参考にすることができた。先輩方の修論に引用されている先行研究やらマテメソの書き方やらはとても参考にさせていただいた。0から探すのは大変だけれど、あるものを活かすのは簡単なので、その点で自分は先輩に助けてもらったと思う。非常にありがたい。
言わずもがなだけれど、もちろん自分が新たに加えたイントロやら研究内で初めてやった実験もたくさんある。特に「自分の研究にこの試料を使う意義」についてはかなり厚く書けるようになったんじゃないだろうか。

自分の経験というのは、論文を書いたり学会発表をしたりした科学的な経験と、そもそもの自分の趣味に分けられる。
卒研内容で論文を書いたことで、かなり型の意識が鍛えられた。一通り論文を書く時に必要なことが学べた。全体像(やるべき作業)が分かった上で進められたので、基本を押さえた執筆ができたと思う。学会発表練習でイントロの組み立て方も鍛えられたので、論理的な情報の並べ方、取捨選択の仕方はブラッシュアップされた。この辺は先生・先輩ありきの成長なので、感謝したい。粘り強く出版にこぎ着けたり堂々と発表したりした自分もまあよくやったでしょう。
あとは、自分の性質として文章を書くことにあまり気負いがないというのが良かったかもしれない。趣味で10万字くらいの文章は散々書いてきたので、大量生産はお手のものである。登下校の電車でGoogleドキュメントに草稿をざくざく書き進め、加筆修正し、最初から最後まで一通りできたらWordファイルの形にするという方法を取った。スマホからGoogleドキュメントを開けば、いつでもどこでも作業ができるのでとても良い。文章を書くこと自体にストレスを感じないのは、わりとアドだったんじゃないか。

そんなに辛くなかった理由をつらつらと書いていると、自分が本当に頑張ったのかよく分からなくなる。徹夜をしていない。エナジードリンクを飲んでいない。徹夜しながらエナドリぶち込んで研究室に入りびたるほうが頑張った感がある気がするが、自分はそうしていない。文章を書く趣味は一旦封印したけど、読む方の趣味は全然続けている。「もう少し追い込めよ!」と他の人に言われそうで怖い。
たぶん、自分が辛くない時は努力しても「自分は頑張った」と思えない性質なんだと思う。客観的に見れば、細胞の世話で連日大学に行ったり、修論の研究と並行して別の内容の卒研を論文にまとめて査読コメントに対応したり、修論直前の12月にシンポジウムで発表したり、元旦に修論原稿を先生に送り付けたりしたので、やることはやっている。修論の初稿を提出したタイミングは、卒業した先輩曰く「早い」らしいし、先生から「よく書けている」と言われたので、速度や質を犠牲にしたわけでもないが、頑張ったのかよく分からない。
毎日よく寝て日中に集中して作業して無理をしないというスタイルで、コツコツ書き進めた。コンスタントに自分が決めた量の作業を毎日できることが、おそらく自分の性質であり長所だ。そういう性質だから、性質に従って行動しているうちは辛いと感じない。辛いと感じないので主観として頑張った気がしない。そういうことなんだろう。
じゃあ、頑張った感を得るために辛いこと(不慣れな徹夜とか?)をするのか、というとそれは本末転倒な気がする。作業量を維持できなくなって、頑張った感はあるけど成果はないみたいな良くない状態になりそうだ。それなら、自分は頑張ったと認めるのが良い気がする。人には人の頑張り方がある。その人にあったやり方は異なる。無理をせず、いつも通りやり続けるのが自分の頑張り方のスタイルなのではないか。そんなことを考えた。

今後はこのスタイルでは上手くいかなくなるかもしれない。その時になったら、また自分なりの頑張り方を考えたいと思う。進学をする予定だけれど、助教には「この研究室では細胞で博士を取った人がまだいないから、3年で出られるか微妙かも」と言われた。自分が努力しつつ、研究室外の人からたくさん力を借りないと、間違いなく上手くいかないと自分も思う。他の人を納得させられる努力とアウトプットをしつつ、自分の頑張りにもう少し好意的でありたい。

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