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数年分の「セルフ大絶賛」

※これは、只々僕が自分で自分を真面目に大絶賛する文章です。

「いやー、ここ数年の働きぶりね。他の人にはできないことをしたよね。
 そんで、それを偉い人ですら、優秀な人ですら全然分かってないよね。
 自分の信じる道を一人で行って、ちゃんと結果出して戻ってきたよね。
 ほんとよくやったよ。いや、これすごいことだよ」

 四年前、きついことがあった。
 コロナ禍真っ只中の当時、僕の職場は、コロナ対応と並行して、子どもたちが来るべき「ソサエティ5.0」を生き抜くためのカリキュラムのあり方を職員総出で研究する、ということをやっていた。これは、平たく言うと、運動会など数多の行事、国語や算数からなる教科指導、クラスや学年の経営など、全てのカリキュラムをソサエティ5.0向けに作り直し、それを全国発表する、というものだ。しかもコロナ禍でも実践できるように、というおまけ付きで。さらに、日々の授業や生活指導、保護者対応を朝七時半から午後四時まで毎日やった上で、である。この無茶苦茶さが伝わるだろうか。

 当時僕は、「初任者」と言われる新人と同じ学年を担当していた。運動会も何とか終わった五月のある日、僕らは、次に待ち受ける公開授業に向けて案を練っていた。授業の構想は初任者であっても従来のそれでは許されず、難解な研究課題に沿ったものではなくてはならなかった。途中でその仕事を止める判断もできないほど疲れ、追い詰められていた僕は、まだ一年目の彼女が頑張るならと脳を振り絞って議論を続け、なんとか目途をつけた。気づくと日付をまたいでいた。彼女は電車通勤だったが、終電はとうになくなっており、僕が彼女を自宅近くの駅まで送った。一時間以上かかる道のりだったが、事故だけは絶対に避けねばと必死で運転したのを覚えている。

 駅には彼女の母親が迎えに来ていた。彼女の母親も教員だ。
「すみませんねえ、まだ心配で」
 そう言いながら缶コーヒーを差し出してくれた彼女の母親の不安に覆われた顔が、駅前のロータリーの街灯にぼんやりと照らし出された。僕は非常識な働かせ方をしてしまったことを、何度も頭を下げて謝るしかなかった。自宅に帰ると妻は寝ていた。すでに深夜二時を回っていた。風呂から出てダイニングの電気を点けると、食卓にはラップにくるまれたご飯のおかずと、「おつかれさま」と書かれた付箋があった。それを見て涙が止まらなくなった。
 僕は、誰も幸せにならないことをしている。
 夢だった教師になって十年余り。この時初めて教師を辞めることを考えた。

 その年の三月、一人の先生が退職した。まだ三十歳にならない、子どもが大好きな女性の学年主任だった。結婚と転居を機に退職、ということだったが、送別会の日の「毎日ぼろ雑巾にようになって働いて・・」という彼女の言葉は、僕に彼女の本当の退職理由を想像させた。僕の学校では、その前の年度も退職者が出ており、この翌年も退職者が出た。どちらも二十代の若手である。

 次の年も色々あった。
 信念に反するいくつもの大変な業務を担当させられた。心をすり減らす対応がいくつもあった。身体も壊した。異動希望も通らなかった。色々な事情で辞めることもできなかった。自分がばらばらになりそうだった。それでも生きられたのは、妻と、若手の存在のおかげだった。 
 
 僕は、この年もまた、教師一年目の別の若手と同じ学年を担当していた。思えば、僕はいつも、若手を絶望させないことに必死だった。いずれ辞めていくとしても、その前にこの仕事の「まっとうな」やりがいや楽しさ、希望を知ってほしかった。僕は誰よりも、管理職よりも、教育委員会の新人研修担当者よりも、それを切に願っていた。いや、本当に、間違いなく。

 二年が経ち、かつて同じ学年を組んだ若手の二人は、幾多の困難や理不尽、無理難題を乗り越え、心も失わずに今も教師という毎日に挑み続けている。そのうちの一人が僕をほめてくれていたこと、いや、大絶賛してくれていたことを、最近人づてに聞いた。そして今、あるラジオ番組で有名な、自分で自分を大絶賛する行為に至ったのである。

 以上が、年月が経ったからこそできた、僕のかなり重めな数年分の「セルフ大絶賛」である。辛く苦しい日々でも、わずかでも何かがどこかへ届いているかもしれない。もしその時それが視えなくても、後から必ずしよう、心ゆくまで。セルフ大絶賛を。

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