口裂け女
ある方と、ひょんな切っ掛けから昔懐かしい「口裂け女」の話題をするに至った。
「私は口裂け女」と、その方が冗談めかして可愛らしくなり切って下さった瞬間に、奇妙な昔話を思い出した。
あれは確か中学2年の春頃だった。どこからともなく沸き上がった「口裂け女」の噂は、瞬く間に学校中に広がり、子供達を震え上がらせた。
目から下半分を隠した女性と突然バッタリと出くわす時もあれば、背後から不意に声を掛けられる事もあるそうで、いずれにしても、女は必ず「私、綺麗?」と尋ねるのだというではないか。
見知らぬ人からそんな事を唐突に聞かれるだけでもぎょっとするというのに、それだけに留まらず、「はい、綺麗ですよ」と言ってあげても、「これでも綺麗か」と言って怒り狂い、顔を覆っているスカーフをズリ下げて、耳元まで裂けた口を晒して追って来る。困った事に、何も答えなくても追って来るそうで、更にはそのスピードが超人並みに早いのだということだった。
おまけに、恨みや辛みに支配されている女の、的を執拗に追い詰める執念がもの凄く、出会ってしまったら最後、救いがないときたもんだ。
出会わぬようにするには、先ず単独行動を避けるべきであり、運悪く出くわしてしまったらポマードが嫌いな口裂け女に、その瓶を見せると良いのだといった、傾向と対策を仲間内で真剣に話し合いもした。
学校から帰る際には家が近い子と密着して歩き、「その角でバイバイだね・・・」と口にした瞬間に、その先から家にたどり着くまでたった一人になることを思い、あまりの恐怖に身震いしたものだった。
後にも先にも、重たい肩掛け鞄をぶら下げて全力疾走したのは、あの時期だけだ。
走りながら後ろを何度も振り返り、半べそで家に到着するのは良いが、我が家はおんぼろでガラスの引き戸には鍵すら付いてはおらず、口裂け女に簡単に開けられてしまいそうな気がして、初めて貧乏を恨んだ瞬間でもあった。
学校では担任教師から「下らない噂話を信じるな。便乗するな」と叱られもしたが、子供達は「あの先生は最初からポマードを付けているから強気なのだ。一回自分も口裂け女に会ってみればいい!」と、この不安を分かってもらえぬ苛立ちから、教師が真っ先に口裂け女の餌食になればよいと言い出す始末であった。
そんな、想像に容易い恐怖のシチュエーションにおいて、何故か不思議な事に、一つ年上の兄達の間ではそんなものは馬鹿らしいとされており、たった一学年の開きであったというのに、その温度差があまりに激しかったことも不可解であった。
それから間もなくして、女子達の関心事は専ら恋愛や勉強の悩みへと変わっていき、口裂け女は徐々に影を潜めていった。
中学三年になって直ぐの事、「二組の川越さんが赤ちゃんを産んだ!」という衝撃的な噂話が学校中を駆け巡ると、それまで漠然と捉えていた「恋愛」というものが、突然生々しいものへと姿を変え、皆の頭に叩き込まれた気がした。
「最近川越さんを見た事ある人いる?」
「ずっと学校に来てなかったよね」
一学年が八クラスもあった大きな学校で、何組の誰それと言われても、実際は声すら聞いたこともない人が多いというのに、川越さんが少し不良っぽく大人びた風貌であったためか、それが嘘か真かなどもはやどうでもよく、彼女ならば赤ちゃんを産んでいても不思議ではないと皆身勝手に囁き合った。
それと同時に口裂け女の噂など完全に立ち消えた。
思えば口裂け女が流行っていた時、中学三年だった兄達は榊原郁恵ちゃんの胸が大きい等と言っていたっけと妙な事を思い出し、なるほど、あれは「大人」になると怖くないのかもと、ぼんやりと考えたりもした。
私が高校に上がる頃には、社交的だった兄は友達が多く、毎日何人もの男子達が狭い我が家に入り浸っていた。
私は兄とは正反対で引っ込み思案、人見知りが激しく、兄の友人達がいつも家に来ることが嫌で堪らなかった。
時に彼らは当時流行っていたテレビゲームやビデオ鑑賞会を居間でやり、「びたりこちゃんもおいで」と誘われたりしたが、私はもじもじと断り、自分の部屋に逃げて行ったものだった。
そんなある日、学校から帰った私は我が家の玄関の中に兄の友人が二人立っている事に気が付いた。
その瞬間、猛烈に腹が立った。「毎日毎日、いい加減にしろ!」そんな思いだった。
今ならば、何故腹が立つのかと可笑しくもなる。堂々と戸を開き、「あら、いらっしゃい。上がっていけば?」と声を掛けもするだろうが、その当時はバリバリ思春期。乙女特有の心理は実に繊細なのだ。
少し汗の匂いが染みついた制服を着て、聖子ちゃんカットが整わない夕方に、狭い玄関で男子の間を縫うようにして家に上がりたくはない。
そんなことをするくらいなら死んだ方がマシだった。
私は一瞬ガラス戸の外に立ったのだが、どうしてもその戸を開けられず、踵を返してしまった。
数秒後にガラガラと重いガラス戸が開いた音と同時に、私は家の横に隠れたが、息をひそめて彼らが居なくなるのを待った。それは衣替えが始まったばかりの六月の事であった。
それから程なくして、私は家の事情で学校を中途退学し働き始めた。
兄は男だから学校だけは出ておかなければと、アルバイトをしながら学業を続けていたある夜、兄の友人達の一人が不意に尋ねて来た。
「お兄ちゃんならアルバイトで・・・」と伝えると、彼は「知ってる」と言い、照れ臭そうに、夏ミカンが沢山入った袋を私に手渡した。
「それ、うちの親から・・・」と彼が言った。
男子高校生がくれるにしては、実に古風な手土産が嬉しく、「わあ・・・」と眺めていると、
「びたりこちゃん、ちょっとそこの公園まで俺と散歩しにいかない?」
そう言って彼は私を散歩に連れ出した。ところが彼は何かを話す訳でも無く、むしろ話題を必死に探しているように見えた。
見兼ねた私は、「口裂け女が流行った時にね、私この道全力疾走したんだよ。ほんとに怖かった・・・」と、話題を振った。
すると、彼はハッとして、思いがけないことを言い出した。
「あれもしかして口裂け女だったかも!」
私はきょとんとして、「何が?」と聞き返すと、彼はごくりと唾を飲んで顔色を変えた。
「びたりこちゃんの家に幽霊がいると思うんだ。いつだったか、玄関の中に居た時に、白い女の影がガラスの向こうに立ったんだ。だけど、一瞬にして消えたんだ。あれは人間の動きじゃなかったよ。本当に見たんだ!みんなの間で噂になっててさ・・・」
彼は心底怯えている様子だったが、あれ・・・それはもしや、あの日猛烈に怒って家の陰に逃げ隠れた私では?確かあの日は白いブラウスを着ていたような・・・そう思った次の瞬間、「まあいいや、そんな事はどうでも良いんだ。俺と付き合ってくれない?」
突然彼から告白された。
彼はあの日見た恐ろしい幽霊に告白している。人間とは思えぬ動きで身を隠した「口裂け女」を可愛いと思っているのだろうか?そんなことを思い、必死で笑いをこらえた。
家が大変な時に、恋愛などしていられない。真っ先にそう思った。この人はいつも優しく声を掛けてくれる人だけど、お付き合いをして、万が一気まずくなったら、兄との友情にヒビが入ってしまうかも、そんな事を考えながら私は話を口裂け女に戻した。
「幽霊って、信じる人の心に出てくる幻だと思う・・・」
気の弱い口裂け女は、心の中で彼が二度と付き合おうなどと言い出しませんようにと祈っていた。
家に帰ってから、甘酸っぱく、ほろ苦い夏ミカンの分厚い皮を懸命に手で剝いた事を思い出す。