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心理的安全性に全振り
初対面の人にコールセンターで働いていることを伝えたら「クレームしんどい?」って訊かれる。やっぱり「コールセンター=クレーム」って印象なんだなと思う。実際にクレーム対応を専門に数年やってきてるから図星なのだけれども。
実際のコールセンターの業務ではクレーム対応はほんの一部分なのだ。「私コールセンターで働いてます」と言われても、その人は電話をとっていない場合が多い。センターの運用を企画していたり、従業員向けに研修を行なっていたり、問い合わせ内容を分析していたり、代理店や委託先企業、工場や営業などと折衝していたり…など、内容は多岐にわたる。これら1つを専門にしている人もいれば、複数ないし全部齧ってる人もいる。
それ、もう電話ちゃうやん…と言う意見が多いのか、最近は「コールセンター」ではなく「コンタクトセンター」と呼ぶ企業も増えている。
例に漏れず僕も色々齧っている。齧り過ぎて周りからは「何でも屋」「雑務野郎」って皮肉混じりに言われている。結構である。こちらは「仕事振られんからってヒガんでるんですねぇw」と思っているし、その開き直りっぷりが伝わって余計に彼らを苛立たせている。
数年前から企画も担当していて、企画専門のチームを複数持つようになった。毎週4−5人で集まってウダウダ議論してあーでもないこーでもないと言っている。あーでもないこーでもないと言っているが、メンバーのほとんどが僕より年下だし、良くも悪くも大人しい。良くも悪くも他人の意見に口出ししない。意見するのは無礼だと考えているメンバーが多い。変に悪印象を与えて嫌われるのではないかと考える人だっている。だから良くも悪くも議論が進まない。お互いが気を遣うあまり冗長なやりとりが続くことがある。
異を唱えられず出来上がった施策ほど傍迷惑なものはない。議論が不十分で穴だらけの施策が走って現場が疲弊することなどザラにある。顧客に負荷をかけることにも繋がるのだ。この数年こういった愚策をたくさん見てきた。だから施策を作る場では密に議論をした方が良いと思っている。
しかしまた会議の場では「心理的安全性」という言葉を否応でも意識する。こちらはただ単に議論をしているつもりでも相手は「意見を否定された→人間性を否定された」と感じていることなど多々あるのだ。議論とハラスメントは紙一重だと思っている。
連日連夜パワハラに関する報道が流れる。世間一般が心理的な安全性に対して敏感になっていることの裏返しだと思っている。15年前の学生時代にバイトしてて怒鳴りつけられることなんか日常茶飯事やったでぇ…という僕は時代錯誤なのかもしれない。
会議は、やろうと思えばいつでも吊し上げの場に変えられる。意図せずそうなることもある。そうはなりたくないから議論にブレーキがかかる。時には過剰に。だから想定が甘い施策や愚策が生まれるのだろう。
密かに尊敬しているライターさんが「本当に心理的安全性が高い職場とは、躊躇なく異論を言える場所であり、それが受け入れられる環境である」と書かれていた。その通りだと思う。
異論をもとに前向きに話し合いができる職場。時に異論は発案者に対する人格否定としても捉えられるが、発言者の言葉の棘やミスを非難するのではなくて許す場。
異論や否定的な意見を咎めたり、それ自体を禁止することに僕は抵抗を感じるのだ。そんなのは心理的安全性を担保していると言えない。それを心理的安全性と言うのなら、異論を唱えた者に悪意がなかったらどう弁解するのか。
どうすれば安全性を担保しつつ議論を深められるか?そして良い施策を作れるか?
これをずっと考えている。結論は出ていないが、ヒントとなるような話がある。
これはかつての上司に申し訳ないと思うが…離婚、親の死を経験して丸くなった上司がいた。前に所属した会社で。4年ぶりに関西に戻ってきて上司と再会して再び彼のもとで働き始めたときに変化を感じた。4年前の鬼と呼ばれていたのが嘘のようだった。
離婚や親の死は恐らく、上司に強烈な劣等感を植え付けたのだと若輩者ながら推察した。もっと話を聞けば良かったとか、あのとき心無いことを言ったとか。後悔はやがて強い劣等感になった。すると、その劣等感を克服しようとする。しかし肝心の相手はもう手の届かないところにいるのだ。
じゃあどうしたのか。上司は別の環境で劣等感を克服しようとしたのだと思う。かつての家庭を職場に投影して、職場で劣等感を拭おうとしたのだ。上司はそして、かつてのように結果を出せなくなった。僕が会社を去る際、飲みの席で思い切って上司本人にこの話をした。結果を出せなくなったという無茶苦茶失礼な話をしても彼は笑っていた。
僕自身も同じような経験をしている。私生活で人間関係を破綻させて、職場でその穴埋めを図った。祖父母が死んだ時もそうだった。時に僕らは盲目的に劣等感を克服しようとする。相手との関係を二度と破綻させたくない、相手の気を害したくない、後悔したくないという考えに取り憑かれて、過剰に心理的安全性を意識し始める。結果、人の気持ちやウェルビーイングなるものを滅茶苦茶意識して何も発言できなくなる。会議では何も決められない。施策を作れない。結果が出ない。
上司の話も僕の話ももちろん極端な例であるが、油断したらそうなるのだ。
例えば劣等感を克服しようと意識するあまり、他人の発言を曲解することはないか?大袈裟な行動をとることはないか?棘がある言葉を発した当人を過剰に非難したりしてないか?なぜか皆に聞こえるように。彼に悪意があったかどうかは鑑みずに。そして会議では誰も発言しなくなる。メンバーは言葉選びをミスったら批判されると恐れ始める。つまりはハラスメントを意識する余り別のハラスメントが起こる。注意したいところだ。
話をぶった切るが今日は土曜である。土曜の夜に仕事の話を書くんじゃなかった…
心理的安全性に全振りするのはどうなんよって言う話でした。
走って飯食って寝ます。ありがとうございました。