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短歌を読む 3 不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心 (石川啄木)
『一握の砂』所収の一首である。
光村図書の中学2年教科書「短歌を味わう」、三省堂の中学2年の教科書「短歌十首」、東京書籍の中学2年の教科書「短歌五首」、教育出版の中学2年の教科書「短歌十首」に収められている。つまり、中学校の国語の教科書のすべてに取り上げられている歌である。
1 「不来方」の意味
言葉の意味が分からなくては、理解することはできない。この歌では「不来方」についてあらかじめ分かっておく必要がある。「不来方」は「こずかた」と読む。教科書では「岩手県盛岡の古称」と注している。ウキペディアは以下のように書いている。
不来方(こずかた)は、現在の岩手県盛岡市を指し示す言葉である。「盛岡」が都市名として使われ始めた時期については諸説あるが、「不来方」は、少なくとも570年の間存在する由緒ある名であることから、現在、盛岡の雅称として使われることがある。
南部氏による開府当時、居城名も「不来方城」であり、この時、都市名として「盛岡」という地名は存在しなかった。
意味としては、盛岡をさす言葉という理解があればよいであろう。ただし、不来方=盛岡という理解ではいけない。「こずかた」「もりおか」ともに4音であり、リズムの上では同じである。なぜあえて盛岡ではなく、不来方を用いたのかは考える必要がある。文学作品を読む際には、このように意味するところが同じであっても、なぜその言葉を用いたかを考えることが求められる。詳しくは後述。
横道に逸れるが、「不」を用いた地名や言葉について触れておきたい。
地名には、「不入斗(いりやまず)」(千葉県富津市)、「不魚住(うおすまず)」(青森県五所川原市)、「不来内(こずない)」(宮城県黒川郡大郷町)などがある。また、夏の夜に九州の八代海や有明海に現れる現象を「不知火(しらぬい)」という。「不入斗」、「不魚住」、「不来内」は下から上に返って「ず」と読み、「不知火」は「しらぬ」と読んでいる。いずれも「不」が後に続く部分を否定する漢文に由来する。
「親不知(おやしらず)」「不器用(ぶきよう)」「不得手(ふえて)」「不可解(ふかかい)」「不可欠(ふかけつ)」「不可避(ふかひ)」「不本意(ふほんい)」「不用意(ふようい)」「不養生(ふようじょう)」「不格好(ぶかっこう)」「不気味(ぶきみ)」「不用心(ぶようじん)」……と「不」の付くことばはたくさんある。「不」を「ふ」「ぶ」と読むものが多い。
「不来」は、漢文で下から上に読み返るから「こず」と読むのである。「不」に「こ」という読みがあるのではない。日本語は中国語を抜きに、語ることは出来ない。漢文は、日本語の成り立ちの一面を知る上で欠かすことが出来ない。「不来方」もそのような成り立ちの言葉であることに触れておいてもよいだろう。
日本語は、文末で否定する。したがって否定の言葉は文末に来ることが多い。それに対して中国語では動詞や名詞の前に否定の言葉を置く。したがって「不来方」となる。日本語の中にある漢語がどのような組み立てとなっているかを知る機会となる。ちなみに「無」「未」「非」なども同じように用いられている。
2 一行書きと三行の分ち書きの違い
教科書の短歌のページを見てもわかるように、啄木の短歌だけが三行の分ち書きになっている。しかし、そのことについて「三行に書き分ける表現は特殊な作風」と触れるくらいで、その意味や効果をほとんど考えようとしていない。
もともと短歌は一行で書くものである。教科書の他の短歌は一行で書かれているし、新聞の投稿欄などを見てもそのことは明らかである。それを啄木は三行に分けて記したのである。
どのように書き表すかという表記は、軽視すべきではない。表記は形式であり、形式は内容と密接に関係している。しっかりと形式にこだわることが出来るように、子どもたちを育てていきたい。この点は三行の分ち書きだけでなく、一字空け(スペース)や句読点の使用などについてもいえることである。
一行で書くということは、歌の構成は読者が読みとらなくてはいけないということになる。百人一首などで上の句と下の句に分けることがよく行われるが、そもそも上の句・下の句は短歌の構成ではない。黒板に書く場合、スペースの問題から短歌を一行で書き表すことは難しい。どうしても二行もしくは三行に分けて書かざるをえない。しかし、それは物理的制約であって、短歌の書き方が本来そうだというのではない。そのことに教師は自覚的でなくてはいけない。
三行の分かち書きといっても、その分け方は歌によって異なる。初句だけで一行にしている歌もあれば、この歌のように上の句で一行の歌もある。作者啄木は、歌の内容によって意図的に三行を書き分けている。つまり、歌の構成を三行の分ち書きという形式で示しているのである。読み手は、歌の構成をわざわざ読み解く必要がない。
このことは一行で書かれている短歌の読み方をも明らかにする。すでに〈短歌を読む1〉〈短歌を読む2〉で触れた歌を再掲する。
列車にて遠く見ている向日葵は少年のふる帽子のごとし
花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる
これらの歌は、「列車にて」「いたづらに」「くれなゐの」などの言葉がどこにどのようにかかっていくかを、言い換えれば歌の構成をまずは読み手が読みとらなくてはならない。つまり一行に書かれている場合、言葉の掛かり具合など言い換えれば歌の構成を読むことを求められる。したがって、一行書きの短歌の方が読み手の負担は大きいといえる。
三行の分ち書きは、はじめから構成を示している。したがって、一行書きに比して構成を読みとることをほとんど読者に要求しない。それだけ読者にとって、読みやすく分かりやすいものとなっている。啄木短歌が多くの人の支持を得る一因には、この三行の分ち書きの効果もあるといえるのではないか。
内藤賢司は、三行の分ち書きについて次のように述べている。
三行書きでは切れ(意味の切れ目と読みの切れ目)がよく分かる。
それに対して一行書きの場合は、読み手が構成から読み解かなくてはならないだけに、読み手の負担が大きいといえる。
ただし、一行に書かれた短歌でも、次のようなものがある。
葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり 釈迢空
俺は帰るぞ俺の明日へ 黄金の疲れに眠る友よおやすみ 佐佐木幸綱
一字空けや句読点の使用で歌の構成を表している。三行の分ち書きほどではないにしても、一字空けや句読点などがあることで、歌の構成は分かりやすいものとなっている。
句切れについても、一行に書かれている場合、それを読み下し、内容を理解していく中でその有無を判断することが求められる。言葉のつながりや句切れの有無は読み手が読みとらなくてはならない。三行の分ち書きの場合、一行目と二行目の終わりを見れば、句切れの有無はほぼ判断できる。一行書きに比して、句切れの確認は容易である。
くどくどと述べてきたが、要するに三行の分ち書きの短歌は、歌の構成を最初から作者が三行に分けて提示しているのである。その三行がどの様に構成されているかは、読み手が読みとるべきことだが、構成が分かりやすい分、読者にとって読みやすいと言える。
3 構成を読む――変化を読む
まず『一握の砂』の中で、この歌の前に置かれている二首を示す。
師も友も知らで責めにき
謎に似る
わが学業のおこたりの因
教室の窓より遁げて
ただ一人
かの城址に寝に行きしかな
この二首につなげて読むならば、授業をさぼってお城の草原で寝ているといった状況が読めてくる。またこの一首だけで読むならば、そこまで限定しなくてもよいだろう。
「不来方の~」の三行は、一見して明らかなように1行目が一番長く、3行目に行くにしたがって短くなっている。言い換えれば、3行目「十五の心」に収束するように書かれている。
1行目で語られるのは、「寝転びて」という「私」の行動である。「て」という接続助詞は、辞書では次のように説明されている。
一連の動作・作用が行われることを表わす (新明解)
引き続いて他のことが起こる関係を示す (明鏡)
「~て」となると、その後にはそれに続く行動が予想される。「~て……する」といった用いられ方である。ところが2行目で語られるのは「私」の行動ではない。「空に吸はれし」という受動的な様子が語られる。そして3行目で「十五の心」が示される。
このように見ていくと、この歌の最大の変化は、2行目にあることが読めてくる。「私」の主体的な行動から受身への変化である。また「空に吸はれし」とは、実際に吸われたわけではないから、「私」がそう思ったという意味では、「私」の心情になる。さらに、草に寝転んでいる地上から、空へと空間的な移動があることも読める。
2行目における変化を整理すると以下の3つである。
① 主体から受身への変化
② 行動から心情への変化
③ 地上から空への変化(下から上への変化)
2行目「空に吸はれし」という受身表現には否定的な感じがある。そこに、空に心が吸われて心がなくなったという、心の喪失というテーマが見えてくる。もう一面では、心が空と一体化したことから、「私」と空との一体化という開放(解放)的な感じにとることもできなくはない。つまり、肯定・否定の両面の読みが可能となる。文学作品の読みにおいては、このように両様の読み方が出来ることがしばしばある。
また1行目は「~て」でおわり、2行目は「~し」でおわっていることから、この歌に句切れはない。最後が「心」で終わっているから体言止めとわかる。
4 「不来方」を読む -技法を読む1
お城の中にある草原で寝転んでいる。この歌の前にある「教室の窓より遁げて/ただ一人/かの城址に寝に行きしかな」を受けるならば、授業を抜け出して一人寝転んでいることになる。またこの歌だけで読んだとしても、広々とした草原の中でただ一人仰向けに寝ている姿が見えてくる。もちろん「寝ころびて」だけで仰向けと読めるわけではない。二行目の「空に吸はれし」と関わらせて、仰向けが読めるのである。短歌は短いがゆえに、後に出てくる表現と関わらせて読んでいけばよい。1行目だけでは仰向けか腹這いかわからないから、2行目を読んでから考えようなどと面倒なことをしなくてもよい。
「お城の草に寝ころびて」には、開放(解放)的で自由な感じがある。ここで気になるのは初めにも述べた「不来方」である。「不来方」は単に場所を示すだけでない。そこには、「来ない」という意味が示されている。否定の言葉を最初に置くことで、戻ってこない、帰ってこないといった意味を連想させる。それはお城の草に寝ころんでいた青春の時代、もしくはその頃の思い、そういったものがもはや二度と戻ってこないといった意味をもたらす。そうなると、戻ってこない時代や思いを後になって回想した歌ではないかという読みも出来てくる。
「不来方」は単に場所を示すだけではなく、最後にある「十五の心」とも響き合い、あの十五歳の時の心は帰ってこないのだと、喪失を歌うものとなる。
5 「空に吸はれし/十五の心」を読む -技法を読む2
「空に吸はれし/十五の心」と読んでくると、この歌には二つの時間が読みとれることがはっきりする。
一つは、寝転んでいるその時である。寝転んでいたら、「十五の心」が空に吸われていったと読むのである。十五の「私」が抱えていた悩みや苦しみといったいろいろな思いが、空に吸い込まれていったようで、「私」の心が軽くなり無心のような気持ちになったという読みである。一瞬であるにせよ青春の苦悩からの解放といってもよいだろう。
二つは、十五の時のことを大人になってから振り返っているという読みである。それはすでに見た「不来方」の読みとも関わる。そのように読むと、十五才のころの純粋な心は空に吸われてしまい、今はもうなくなってしまったという「十五の心」の喪失が読めてくる。
この歌を、「私」がどの時点から語っているかという観点で読むと、以上の二通りの読みが可能になる。
後者のように、大人になってから振り返っていると読むとき、「不来方」という言葉がより生きてくる。「不来」は、来ない、戻ってこないといった意味である。そして、否定形「不」から始まることもあり、マイナスイメージを伴う。単なる地名というに止まらず、あの十五才のころはもはや二度と戻ってこないのだという喪失のかなしみをよりかき立てる言葉となる。
体言止めの効果は強調と言われたりする。しかし、強調というだけでは、その効果を読み解いたことにはならない。体言止めは、体言(名詞)で終わる技法である。普通であればその体言の後に「~である」とか「~がどうした」といった言葉が続いていく。しかし体言止めはその部分が書かれていない。したがって読み手に、その後にどのような言葉が続いていくかを想像させることになる。それを余韻・余情という。読み手に託されるのであるから、その読み方は一通りではない。もちろん、歌で述べられていることに規定されるが、その範囲内で読み手の想像は自由なのである。
6 先行の解釈をみる
岩城之徳は、この歌を以下のように評している。
「空に吸はれし十五の心」には、はろばろとした大空に託す少年の日の夢と、青空に浮ぶ白雲を眺めながら、何時しか無心になりゆく少年の日の記憶が巧みに表現されていて興味深い。
私の手元の指導書は、次のように「鑑賞」している。
盛岡中学の三年生に進級した啄木は、生涯で最も希望に満ちた時期であったろう。その幸福感を、東京での失意の中で追憶し、「空に吸はれし」とみずみずしくうたい上げている。しかしこれは、単なる懐かしみの表出ではない。過去の幸福を追想しながら、かえって現実の己を厳しく見つめている心の表出であると受け取りたい。
このような鑑賞に違いがあるのも、体言止めに由来する。体言で止めることで、言い換えればその後を述べないことで、肯定的な読みになったり否定的になったりもする。
ただし、指導書の〈「空に吸はれし」とみずみずしくうたい上げている〉という解釈には納得しがたい。どこからそのように読めるのだろうか? 歌の解釈はともすれば、鑑賞者の勝手な解釈や思い入れが入り込んだりする。少なくとも、授業で教える以上、しっかりと表現に根拠を持った読みをするべきである。
6 歌の主題を考える ―― 鑑賞・吟味する
二つの時間が読めると述べてきたが、私は「いま」と読むよりも大人になって十五歳の時を回想していると読む方が、この歌の鑑賞としてはよいと思う。大人の今と青春の日々とが重なり、歌の奥行きが深くなるからである。
主題は、喪失である。冒頭の「不来方」と3行目の「十五の心」が、言い換えればはじめとおわりが見事に照応し合っている。そして「十五の心」に象徴される青春の日々がもはや帰ってくることは無いという、喪失のかなしみが歌われる。それは、単なる悲しみではない。そこには懐かしさもあれば、愛しさもある。
体言止めで最後を読者に預けることにより、いわゆる余韻を生み出している。「十五の心」の後をどのように想像するかは、読み手によって異なる。そこに、青春の甘酸っぱさや懐かしさを強くイメージするか、戻ってこないことのかなしみをより強く感じるかは人による。私は、かなしみの方に比重を置いて読みたいと思う。
以下の文章を参考にさせていただいた。
*児玉健太郎「近代短歌の読み方 ―石川啄木二首―」 読み研通信第132号(2019.11.3)