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書くことにおける「一字下げ」の考察

はじめに

 昭和28年、新聞に掲載された今西祐行の「コスモスの庭」という小品がある。これは後に「一つの花」という彼の代表作へと発展していく作品であり、共同通信系の新聞社に配信されたもので八紙に掲載されたことがわかっている(注1)。八紙の掲載紙面を比べている中で私が気になったことの一つに、八紙のうち二紙(佐賀新聞・下野新聞)が段落における一字下げを行っていない(「コスモスの庭」以外の記事において一字下げをしていない新聞は他にもある)ことであった。つまり、昭和28年時点において段落はじめにおける一字下げがかなり行われていることは確かなのだが、それが必ずしも当たり前のものではなかったと言えそうなのである。
 現在では、文章を書く際に段落のはじめで一字下げを行うことは当たり前のことになっているように思われる。学校で原稿用紙を使って書く場合、書き出しは一字下げて書くことをどの教師も教えている。しかし、少し時代を遡ると段落のはじめでの一字下げは、当たり前のことではないのである。本論では、段落はじめにおける一字下げの歴史を振り返り、その意味を考察するとともに、現在における一字下げの問題を考えていく。

 (注1) 以下の論文で、その経緯を明らかにしている。
 「一つの花」(今西祐行) 成立過程の考察―「コスモスの庭」から「一つの花」へ 「読み」の授業研究会研究紀要16号 2015年

1 「舞姫」には、一字下げがなかった

 「舞姫」の諸本を研究した『森鷗外「舞姫」諸本研究と校本』では次のように述べている。

「舞姫」諸本のうち、改行の際の一字下げがあるのは『塵泥』のみであり、初出系・水沫集系のいずれも一字下げがない。

嘉部嘉隆編著『森鷗外「舞姫」諸本研究と校本』桜楓社 昭和63年

 明治23年1月の『国民之友』に発表された「舞姫」本文をみると確かに段落はじめの一字下げは行われていない。現在においても多くの教科書に収録され、森鷗外の代表作であり、明治を代表する作品の一つともいってよい「舞姫」であるが、その形態は私たちが教科書や文庫本で見るものとは大きく異なっていたのである。
 「舞姫」が一字下げを行っていなかったからといって、段落意識がなかったわけではない。段落の変わり目において行替えがなされている。改行したはじめの行を一字下げしなかっただけである。一字下げしなくても、行の途中で終わり改行されていれば、読み手にとって特に支障はない。行末にある空白が段落の変わり目であることを示しているからである。
 しかし、行末の空白がない場合、すなわち行の終わりまで文字がある場合、次の行が一字下げがないまま始まれば、改行されたかどうかの判別はできない。現に「舞姫」の場合、そのような箇所が後に問題になっていく。
 「舞姫」は、次のように語り出される。

 石炭をばはや積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱灯の光の晴れがましきもいたづらなり。今宵は夜ごとにここに集ひくる骨牌仲間もホテルに宿りて、船に残れるは余一人のみなれば。
 五年前のことなりしが、平生の望み足りて、洋行の官命をかうむり、このセイゴンの港まで来しころは、目に見るもの、耳に聞くもの、一つとして新たならぬはなく……


 「五年前~」から太田豊太郎の回想が始まり、当然のこととして改行される。しかし、大正四年に出された「塵泥」版の「舞姫」ではこの箇所は改行されていない。森鷗外の自筆原稿・『国民之友』や『国民小説』所収の「舞姫」ではこの箇所の改行は明白であるにも関わらずである。この箇所に関わって『森鷗外「舞姫」諸本研究と校本』では次のように述べられている。同書では、本文を七十七の「分節」に分けており、①②……の数字は、それぞれの分節を示している。

『塵泥』では段落分けがなく改行せずに文をつないでいる誤りが三箇所ある。 

①余一人のみなれば。―②五年前の事なりしが
⑩悟りたりと思ひぬ。―⑪余は思ふやう
⑬深く信じたりき。―⑭嗚呼、彼も一時。

 これらは『塵泥』の原拠である『改訂水沫集』において、文が行末で終り、次の行頭に一字下げがないため改行と見做されず、『塵泥』でそのまま文を続けてしまったものと思われる。文内容から、また諸本対比の上からも段落分けをする方が妥当であろう。

嘉部嘉隆編著『森鷗外「舞姫」諸本研究と校本』桜楓社 昭和63年 96p

 「塵泥」版の「舞姫」が、岩波書店の「鷗外全集」での底本となり、一般に普及していく。それゆえ、「五年前の事~」が改行されていない本文の方がより「一般的」であった時期が存在する。
 教科書収録の「舞姫」もその影響を受けていた。一九九四年~九五年に文部省(当時)の検定を受けた高校「現代文」の教科書(注2)は、「五年前~」からで改行していない。そして、回想の途中「げに東に帰る今の我は、西に航せし昔の我ならず。……」には改行がある。結果、回想が始まる「五年前~」からでなぜ改行されないのか、そこにどのような意味があるのか、何か深い意味がそこに隠されているのではないか、と文章表現をきちんと読もうとする教師は、そして生徒も混乱したのではないだろうか。
  (注2) 加藤が確認したのは大修館書店・尚学図書・学校図書の三社
      である。
 ここでは「舞姫」の本文検討が主題ではないのだが、段落はじめの一字下げが行われていなかったがゆえに、誤った段落理解がなされ、そのことが「舞姫」の教科書掲載においても、近年まで影響を与えていたことは改めて確認しておきたい。
 このことから、段落はじめにおける一字下げが、改行を明示する指標として有効であることが確認できるだろう。しかし、少なくとも明治大正時代において段落冒頭の一字下げが、必ず行われるような一般的なものではなかったことは明らかである。そしてはじめに述べたように、昭和28年の新聞においても、一字下げの方が主流になったことを示してはいるものの、字下げしないところがあったのである。

2 これまでの一字下げの研究

 一字下げの歴史について、飛田良文は次のように述べている。

 文章を構成する段落の冒頭表示は、今日、一字下げが行われている。これは、いつはじまったのか、必ずしも明らかでない。奈良時代から江戸時代まで、一字下げは行われていない。(中略)
 明治二〇年には、三宅米吉の『習字教授案』、新保磐次『日本普通文如何』、渡辺修二郎訳の『世界実事奇談』があり、雑誌『以良都女』は明治二一年七月創刊号から一字下げを実行した。

飛田良文「西洋語表記の日本語表記への影響」『現代日本語講座 第6巻 文字・表記』(明治書院 平成14年)

 また、平井昌夫『國語國字問題の歴史』(昭和24年 昭森社)では現在の憲法が生まれる過程で「法令の書き方についての建議」という文書が出されたことが述べられている。そこでは次の七つの条件が示されていたという。

 一、文體は口語體とすること。
 二、むづかしい漢語はできるだけつかはぬこと。
 三、わかりにくい言ひ廻しをさけること。
 四、漢字はできるだけへらすこと。
 五、濁點、半濁點、句讀點をもちひること。
 六、假名は平假名をもちひること。
 七、行をあらためるときは書き出しの文字を一字下げること。

 昭和21年3月26日に「国民の国語運動」代表安藤正次から内閣総理大臣幣原喜重郎に向けて出されたこの建議は、現在国会図書館によって画像データが公開されており、インターネット上で見ることができる。それを見ると、七つの条件ではなく五つの条件が示されており、先の六つ目七つ目の項目がない。ここでは、その相違については論じない。少なくとも昭和二〇年代のはじめにおいて「行をあらためるときは書き出しの文字を一字下げること」と言われるということは、そうではない状況すなわち一字下げが一般的ではない状況が存在したということである。
 ここでの文言が、書き出しのときに一字下げるのではなく、「行をあらためるときは」となっていることに注意しておきたい。改行に関わって一字下げが述べられているのである。

3 一字下げは絶対的なものでもない

 段落冒頭の一字下げについては、現代では当たり前と述べたが、この問題について、もう少し考えておきたい。
 段落冒頭の一字下げは、複数の段落がある文章において、段落の変わり目を示すためのものである。特に、文末が行末と一致する時には、一字下げがなければ、そこで改行されているのかどうかが読者には分からない。一字下げを行うことで、改行が明白になる。しかしながら、一字下げは絶対的な決まりとも言えない。例えば、高畑勲『十二世紀のアニメーション』(徳間書店1999年)においては一字下げが行われていない(「はじめに」「あとがき」を除く)。これは絵巻を読み解いていくもので、絵と文章が一体となったものという特殊性はあるのだが、一字下げがないことでの段落の判別に特に支障はない。なぜなら、文末と行末が一致する箇所がないからである。全ての段落において、行の途中で文が終り、行末の空白が存在する。段落の終わりが空白によって示されれば、段落はじめの一字下げは特に必要ない。なおかつ、一字下げがないことで、行頭に文字がきれいに横並びで揃い、視覚的な美しさをも持つことができる。
 写真1と2は、大阪市内を歩いていて見つけたものである(写真1は大阪市内にあった新町橋の案内説明板、写真2は同じく四つ橋の案内説明板である)。見てわかるように、改行に際して一字下げをしていない。結果として、行頭にきれいに文字が揃うレイアウトになっている。
 現在においても、一字下げが絶対的なものでないことがこれらからもわかる。しかし、これらのケースは特殊でもある。文章が長くなればなるほど、文末と行末が一致する箇所が出現する可能性は高くなる。一字下げをせずに段落を明示することは、あくまでも限定的なケースで可能というに過ぎない。

写真1


写真2

4 教師用指導書の問題から ―― 一字下げへの疑問1

 その一方で、現在行われている一字下げに問題がないわけではない。
私の手元に某社の高校国語の教師用指導書がある。その中に小説の主題を二百字と百字でまとめた箇所があり、それぞれ一字下げをして始めている。主題をまとめたものであり、当然のことながら段落は存在しない。なおかつ、一字下げをした空白分も一字と数えた字数をそれぞれに記している。
 別の社の指導書を見ると、同様に主題を示すところは一字下げではじめている。しかし、一字下げの空白は字数に含めていない。
一字下げの空白を字数に数えるかどうかは、教科書会社によって異なるのである。ただし、書き出しにおいて一字空けすることについては、一致している。
 そもそも、一段落もしくは一文で終わる文章や文の書きはじめにおいて一字下げをすることにどのような意味があるのだろうか。はじめから改行を前提としない文や文章において一字下げを行っていることをみると、一字下げが本来持っていた意味が変わってきていることが見てとれる。それに加えて、字下げの空白まで字数に数えることにどのような意味があるのか、はなはだ疑問である。

5 全国学力・学習状況調査の国語の問題から ―― 一字下げへの疑問2

 もう一つ、気になる事例をあげる。全国学力・学習状況調査の国語の問題に、次のようなものがある。

 森山さんは、【文章】の要旨を次の【ノート②】にまとめています。 ウ の中に入る内容を、【文章】の中の言葉を使い、六十字以上、百字以内で書きましょう。なお、書き出しの言葉は、字数にふくみます。
    平成二十七年度全国学力・学習状況調査 小学校国語B問題より

 この問題の後に、下書き用の原稿用紙が示されており、「物事を決めるときに大切なことは、」という文字が記入されている。解答者はこの後に続くように答えることを求められている。その際に、「物事を決めるときに大切なことは、」の前の最初の一マスが空白になっている。解答自体を一字下げで書くことが求められているのである。
 解答は「六十字以上、百字以内」という字数制限があるのだが、最初の一マスが空いていることにより、実質的には「五九字以上、九九字以内」になっている。六十~百字の文章では改行する意味はない。そのような文章の書き出しを一字下げすることに意味があるといえるのか。なおかつ、ここでも字下げの空白を一字に数えていることも問題と言わざるをえない。
 全国学力・学習状況調査は、ある意味「お手本」となるテストである。調査とは言いながらも、現実には成績の向上を願う学校や教師も多く存在する。それゆえ全国学力・学習状況調査の過去問やそれを模したテストが広く行われてもいる。その結果、書きはじめは一字下げをするもの、一字下げも字数に含めるといったことが「お手本」として広まっていくことが十分に考えられるのである。

6 中学高校入試における作文

 公立の中高一貫校や高校での選抜試験において作文が出題されるケースは広く存在する。その際に、「原稿用紙の正しい使い方にしたがって書くこと」といった注意がなされてる。
 私もかつて公立高校に勤務しており、作文の採点に携わったこともあるのだが、書きはじめで一字下げをしていない場合や行頭に句読点を打っている場合などは減点の対象とした。つまり、「原稿用紙の正しい使い方」では、書きはじめの一字下げは当然のことである。
 しかしその一方で、そのような指導が、書きはじめは一字下げるという形式的な指導になってきているのではないかという懸念をも持つ。現在の学校教育では、小学校から大学まで段落の一字下げが当然のこととして教えられて(また要求されて)いると思うのだが、一字下げがもともと持っていた意味が曖昧になり、書きはじめはすべて一字下げるといった理解になっているのではないだろうか。「書きはじめは一字空ける」ということだけが機械的に教えられ、その意味が考えられなくなっている現状があるのではないか。
 文章の書きはじめを、一字下げにすること自体には意味はない。なぜ一字下げる必要があるのか、その理由をきちんと示さずに、「書きはじめは一字空ける」といったところで意味はない。全国学力・学習状況調査の問題に見られるように、書きはじめは一字下げるものだといった暗黙の了解が現在においては成立しかけているように思われる。
 一字下げは、複数の段落を持つ文章において、段落の変わり目を明示するための手だてとして行われてきたものである。あくまでも改行を前提としての一つの手立てなのである。

7 書くことの指導を見すえて

 一字下げの指導は、改行にともなって行われるものである以上、どこで改行するのか、なぜ改行するのかといった問題と密接に関わり合っている。言い換えれば、段落意識の形成と一字下げの問題は裏表の関係にある。
 読解における段落の指導は容易である。一字下げているところすなわち形式段落で判断すればよいのであるから。しかし、書くことにおける段落指導は読解ほど容易ではない。どこで段落を変えればよいのかを、子ども自身が判断できるように教えていく必要がある。残念ながら、日本の国語教育で書くことにおける段落の指導が丁寧教えられていることは少ないのではないだろうか。段落のはじめは一字下げることを教えても、どこで段落を変えるかをきちちくことの指導の初期の段階では、一字下げることよりも、内容上の「まとまり」を意識することを重視すべてきであると私は考えている。
 私が見た授業を例にあげる。小学二年生の、二つのものを比べて文章に書くという授業であった。教師は、「野球とサッカー」「教室と図書室」といった課題を子どもに提示する。そしてどのように書いたらよいかというところで、大きく三つのまとまり(段落)で書くように指示したのである。一つ目のまとまりが何と何をくらべたかを述べる。二つ目で、二つの同じところを説明する。三つ目で、違うところを説明するというものであった。この段階では、子どもたちが一字下げができているかということよりも、三つのまとまりに分けて書けているかということの方を重視すべきである。段落の一字下げという形式以上に、内容的なまとまりを意識させることを大事に指導した方がよい。その結果として一字下げを教えていけばよいのである。
「まとまり」を意識させるところから、段落をどう構成していくのかを子どもたちに理解させていくのである。形式的な一字下げは、書きはじめは常に一字下げるといった誤解に繋がる上に、段落意識を育てることにおいても有効ではない。

おわりに

 なぜ一字下げから始めるのかという意味がきちんと理解されないまま、書きはじめを一字下げることが行われるようになってきている問題を述べた。一字下げは、複数の段落のある文章において、段落が変わったことを示すためには有効な書き方といえる。しかしそのことと、文(文章)の書きはじめにおいて一字下げを行うことは同義ではない。一文だけの表現で、もしくは一段落しかない文章で、一字下げを行う実質的な意味はなにもない。一字下げは改行を明示するためのものであり、その原点に戻って考える必要がある。

*この文章は数年前に書いた未発表のものである。そのため、教科書などの記述がいささか古いことをお断りしておく。


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