「模型のまち」(中澤晶子)を読む 2事件を読む
事件とは
物語では必ず何かが起きる。何かが起きたことで、何かが変わる。それを事件という。私はかつて事件について次のように述べた。
物語・小説で描かれる、主要な、一連の出来事をいう。「すじ」ともいう。どのような事件が描かれているか(事件のはじまり=発端、クライマックスなど)を読みとることで、作品の骨格を大づかみすることができる。
*明治図書『国語教育』2013年1月号
事件を読みとることで、そこで何が起こり、どのような変化があったかをつかむことが出来る。事件をつかむには、発端とクライマックスを明らかにすればよい。
発端・クライマックスの指標
私は、発端・クライマックスの指標を次のように考えている。
【発端】
①事件のはじまり(主要な事件の流れのはじまり)
②いつもとは違うことのはじまり(非日常のはじまり)
③ある日、ある時といった特定の時間の中ではじまる
④主要な二人の人物の出会いのはじまり
⑤説明から描写へと語り方が変わるところ
【クライマックス】
①事件がいちばん大きく変化・確定するところ
②描写性の高いところ(表現上の工夫がなされているところ)
③緊張感の高いところ
「模型のまち」の構造よみ
「模型のまち」の構造を、私は次のように読んだ。
【構造表】
○冒頭 ポケットの中に……
│
○発端 亮は六年生の春……
│
○山場のはじまり このまちには、被爆当時の様子を……
│
◎──クライマックス ビー玉は、長い間、がれきの間でねむっていたとは思えないほど、見た目はきれいだった。けれど、亮の指先は、玉の一部が変形しているのを感じていた。熱でとけたガラス……。この玉は、だれのもの? 亮だけが、かっちゃんの玉だと思っている。夢の中の玉? あれが夢だったかどうかも、亮にはわからない。でも、あの玉で遊んだかっちゃんたちは、確かにここにいた。このまちの子どもだった。いたけれど、いなくなった。白いビー玉を残して。亮には、それがはっきりわかった。 (結末)
│
○おわり ……このまちに、また夏が来る。
上記の構造よみと場面分けとを重ねると、以下のようになる。
1場面 導入部①
2場面 導入部②
3場面 展開部
4場面 展開部
5場面 展開部
6場面 展開部
7場面 山場の部
8場面 終結部
発端の理由
「亮は六年生の春……」からを発端とした理由を述べる。ここから亮と「ひろしま」との出会いが始まるからである。発端・最初の一文は次のように書かれている。
亮は六年生の春、支店長になって大張りきりで転勤する母さんといっしょに、ひろしまに来た。
この文の主述関係をとらえると「亮は~(ひろしまに)来た。」となる。次の文と比べてみる。
亮は六年生の春、ひろしまの支店長になって大張りきりで転勤する母さんといっしょに、転校した。
「亮は~転校した」は、学校を変わったことに重きを置く。それに対して「亮は~(ひろしまに)来た。」は、場所に重点を置いている。その後でも「ひろしま」のまちが紹介され、「でも、何だかつまんない。」という亮の「ひろしま」に対する印象が語られる。発端から亮と「ひろしま」との出会いに焦点をあてて語られていることがわかる。
1場面に「あのまち」、さらに8場面にも「このまち」とまちが出てきていた。題名も「模型のまち」である。それらを合わせて考えると主要な事件は、亮と「ひろしま」との出会いにあると読めてくる。
また、「亮は六年生の春」とここで初めて時間も具体的になる。ここまでには、具体的に時間を示す記述はなかった。
ここ以外に、発端の候補と考えられる箇所は次の2つである。
A 「ぼうっとして歩いてると、烏にふんされるよ。」
B 「わ、圭太兄ちゃん、どうしたの、その手。」
Aは、亮と真由との出会いのはじまりといえる。その後に「なあんだ、真由ちゃん。となりの席の子だ。親切、別名、おせっかい。でも、まあいい感じだ、と亮は思っていた」とあるように、真由とは教室で顔を合わせており、ここが初めての出会いではないのだが、物語の展開上はここで初めて真由が登場する。
しかしこの作品は、亮と真由の二人を中心に展開していく話ではない。また、物語の展開に沿って真由との関わりが変わっていくようにも描かれていない。したがって、Aは発端とはいえない。
Bは、圭太が作っていた「模型のまち」と亮が出会うはじまりである。確かに題名は「模型のまち」であり、物語の中で「模型のまち」が重要な役割を果たしている。しかし「模型のまち」は、「模型のまちが、本当にあったって、きっとわかる」という言葉にあるように、原爆投下前の「ひろしま」のまちを亮に教えてくれるものとしてある。「模型のまち」をどうこうするという話ではない。したがってBも否定される。
この作品の発端は、揺れないと思う。子どもたちも「亮は六年生の春……」からを発端とすることに納得するだろう。それでも他の発端候補を考える意味について触れておきたい。
教材研究の大事な観点の1つに、自分の教材研究を絶対化しないということがある。これで決まりだ、これしかないと自分の考えを絶対化してしまうと、それとは異なる意見にどうしても否定的に対応してしまう。「何でそんな答えを言うの?」「どうしてわからないのか」と子どもを見下したり、子どもの意見を軽視したりしてしまう。そうなると、子どもたちは教師の様子を窺い、教師に合わせた意見を出すようになっていく。教師が教室の絶対者になっていくのである。
異論を想定しておくことで、教師は子どもの多様な意見への対応がよりしやすくなる。教師の対応の幅が広がるから、子どもたちも意見を出しやすくなる。
予め異論を想定していても、想定外の意見が子どもから出ることもある。そういう場合でも、いくつかの異論を考えることができていると、そうではない場合に比べて遙かに対応は容易となる。
教材研究は、教師の読みを深めるだけのものではない。間違いも含めた子どもの多様な意見を想定していくことで、授業での子どもの様々な反応や意見に教師が柔軟に対応できるようになっていくという側面もある。
なぜ「ひろしま」なのか
この作品では、「広島」という表記が用いられず、「ひろしま」とされている。それも出てくるのは一度だけである。事件を読むこととは少し外れるが、その意味を考えておきたい。
「広島平和記念資料館 学習ハンドブック 資料館によく寄せられる質問Q&A」の中に、次のようなものがある。
Q3 どうしてヒロシマとカタカナで書くのですか?
A 広島を「ヒロシマ」と書きあらわすことについて、使い方がはっきりと決まっているわけではありません。新聞では、たとえば、「ヒロシマの記憶」のように、平和や原爆に関連する記事では、普通の地名の広島と区別する意味で使っているそうです。広島市役所では、被爆都市として世界恒久平和の実現をめざす都市であることを示す場合に、「ヒロシマ」を使っています。
「広島」「ひろしま」「ヒロシマ」と三つの表記がある。なぜここでは「ひろしま」なのか、どうして一回しか出てこないのか、それらの問いに明確な答えがあるわけではない。ただ、文学作品だからこそ言葉の表記にもこだわり、そこに疑問を持てるような子どもたちを育てていくことを大事にしたいと思う。
私(加藤)の考えを、以下に述べておきたい。
先のアンサーから分かるように、「広島」は地名を示すものである。それに対して「ヒロシマ」は、「被爆都市として世界恒久平和の実現をめざす都市であることを示す」場合に用いられるという。とすれば「ひろしま」は、そのどちらでもない中間に位置することになる。亮に寄り添った三人称限定視点の語りであるから「ヒロシマ」としたら、亮が被爆したまちであることを意識しているような感じを与えかねない。かといって「広島」としてしまうと、亮の意識の中に原爆のことすらないかのような印象を与えかねない。なおかつ、語り手の中にも単なる地名としてだけとらえたくない意識があるのではないだろうか。それゆえ、どちらにも与しない表現として「ひろしま」が用いられたのではないだろうか。
もう一つ、「ひろしま」が一回しか出てきていないのはどうしてだろうか。私は、語り手が意図的に「ひろしま」を繰り返すことを避けたのではないかと考える。4場面での圭太と真由の言葉を見てみよう。
(圭太)「五○○分の一の、あるまちの模型。まだ作りかけ。これからどんどん家をはり付けていくから、もっとまちらしくなる。」
(真由)「やっぱり。わたし、すぐにわかった。あのまちよね、このまちは。」
「あるまち」「あのまち」は「ひろしま」に置き換えることも可能である。特に真由の「あのまちよね、このまちは。」は「ひろしまよね、このまちは。」の方が自然な感じすらする。語り手は「ひろしま」とせず、敢えて「あのまち」「このまち」と表現したのではないだろうか。漢字・カタカナ・ひらがなのどれであろうと「ひろしま」には、原爆投下のイメージがついて回る。しかしこの作品で描こうとしたのは、原爆投下以前に存在したまちの姿である。原爆投下以前のまちを描くために、敢えて「ひろしま」を繰り返すことを避けたのではないだろうか。
クライマックスの理由
クライマックスを「ビー玉は、~でも、あの玉で遊んだかっちゃんたちは、確かにここにいた。このまちの子どもだった。いたけれど、いなくなった。白いビー玉を残して。亮には、それがはっきりわかった。」には、以下のような変化が読める。
① これまで亮の中では、かっちゃんたちのことは夢なのかそうでないのかはっきりしなかった。しかしここで亮は、かっちゃんたちの存在を確信する。
② 「発掘調査現地見学会」を通して、白いビー玉を見ることで、亮には模型のまちが現実に存在したまちと実感される。以前には、亮の中で「まちは~模型でしかなく、白いままねむっていた」ものであったが。
③ 「何だかつまんない」と感じていたひろしまのまちが、亮にとって身近で親しみのあるまちへと変わった。
④ 原爆投下以前のまちの姿を知り、そこに生きた人々と出会い、そこで起きたことを知ることで、亮はひろしまのまちの歴史を身をもって体験し、「ひろしま」のまちに対する見方が変化した。亮にとってひろしまは、かけがえのない身近で大事なまちとなった。
亮のひろしまの第一印象は「何だかつまんない」であった。それに対して母は「昔のものが全部焼けて、一から新しく作ったまちだから、しかたないでしょ」と答える。原爆により全てが失われたこと、言い換えれば原爆によってそれ以前と断絶したまちであると母は語る。もちろんこの時点で母の言っていることが亮に理解されていたわけではない。
亮のひろしま理解は、平和公園が昔から公園だったという無知からはじまる。そして「模型のまち」との出会いを通して、かつてはそこにさまざまな人が住み生活していたことを知っていく。そしてそのまちでかっちゃんたちと遊んだ「夢」を見る。それは亮にとって、まちを一段と身近に感じることだった。そして「発掘調査現地見学会」で出土したビー玉と出会う。
このような経過を見てくると明らかなように、事件は亮のひろしま理解をめぐって展開している。亮にとって生まれて初めて来たまち「ひろしま」が、何も知らない「何だかつまんない」まちから、町の歴史を知り、そこに生きた人々を知り、その生活を知ることで、自分が生まれ育ったまちのような、亮にとってかけがえのない大事なまちへと変わっていくことを描いている。まちの歴史を知ることは、昔が今につながることであり、より親近感を持ってまちをとらえることが出来るようになることでもある。
ただし、この作品のクライマックスは、さほど劇的ではない。亮の認識は一気に変わるというよりも、「模型のまち」やかっちゃんたちとの「夢」、「発掘調査現地見学会」と少しずつ変化していくように描かれている。その最終のところが7場面の最後のクライマックスといえる。
他のクライマックス候補としては、5場面があげられる。時間的には過去に戻るし、現実でもない。その意味では3~7場面の中では異質といえる。しかし、現在から過去、現実から夢?という変化はあるものの、それはあくまでも形式的な変化である。5場面を通して何が変わったのかを考えなくてはいけない。とすればその変化は自ずと5場面よりも後に見出していかなくてはいけなくなる。
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