私の抗い vol.1
私の抗いvol.1
私はつい、純粋なもの、とか、きれいなもの、といわれている表現とか、ものを見たりすると「大げさな」とつい笑ってしまうところがある。それは、そのものに対するねたみのきもちではなく、なんだか単純で幼稚でさらけ出していて、かっこがついていないと感じるからだ。これが所謂、「冷笑」というやつなのだろうか。
しかしながらかくいう私も、以前かなり「そういうふうな」対象として見られていた実感があって(もしかしたらいまも私のことを純粋で一生懸命でパワーに溢れているなんて思う人もいるのかも知れない)、まあ高校でひとりでポスター貼っていたらそういう見られ方をされてもおかしくないのかも知れないけれども、自分で自分を嘲笑いたくなるような、ひどく恥ずかしいことをしているような自己否定的気分に引っ張られてしまうような時もある。
まあこんなところで、私が言いたいのは2つ。
・「行動」と友人関係
・若者差別
である。
まず一つ目。
「行動」と友人関係
私の行動
私は高校3年生の時、ある「行動」を起こした。それはSNSで万単位で「バズり」、必然的に私のSNSが、その内容が、学校の人々に知れ渡ることとなった。
多くの人は、私は特定の政治的思想・主張に「洗脳」された結果の「行動」だと思ったらしい。
学校ではほとんどの人がこの件には口を閉ざし(とは言っても私に聞こえてこなかっただけで、大分噂話は広がっていたよう)、同時に私は学校内で、日に日に浮いていくのを感じた。空気感は伝染するものだ。
(ああ思い出して正直書くのがしんどい。けど書く。)
しかし、以前から私のことをよく知っている数名の友人たちは、色々話を聞いてくれたり、考えを共有してくれた。
私は特段、学校で浮きたくて浮いたのでもなく、同世代のみんなを見下し馬鹿にしていたからひとりで「行動」を起こしたという訳でもなかった。むしろ、勉強やスポーツなど、世間一般に「良い」と言われていることに自己の価値観を縛られているような校内で、「本当にそうなのか」と問うたら斬新で面白いんじゃないかとか、多少窮屈さを感じている人がいたとして共感してくれたり何かもっと面白い考えを発見できたら良いなとか、どちらかというと孤立するためではなく、そのとき私にあったのは「ノリ」と、仲間を求める気持ちだった。
しかしながら、窮屈な校内はそんなことに興味を持つ余裕もないほど、学習的無力感に冒されていたのかも知れない。私のこの「ノリ」は全く「ウケる」ことなく、この突飛な「行動」は最終的には政治的に「洗脳された」結果ということになってしまった。
ここで私は問いたい。果たして、「行動」は「洗脳」の結果なのであろうか。
これを考えるために、私は自分の「行動」の動機を語りたい。
「行動」の経緯
私が仙台二高で「この国の学校制度を考える会」を1人で立ち上げ、かつ社会への関心を勉強を促すような活動を始めた大きなきっかけの一つが、2022年1月共通テストの会場だった東京大学で当時高校2年生(同い年)だった男子高校生がその場にいた人々を刺した事件だ。犯行の動機は、「東大に入れないのなら自分に価値はない」ということであり、これを聞いた時私は鳥肌が立ってしまった。じつは私も当時、東大の文Ⅲに入りたいと思って勉強していた。それはひとえに、自らの学歴主義に突き動かされてのことだった。
私は元々、スポーツも勉強も人より「良く」出来ることが多かった。そしてそんな私を家族はベタ褒めしてくれた。いつのまにか、自分が賢く、世間一般に「良い」と言われ推奨されることに優れている、つまりは「文武両道」であるということに強烈にアイデンティティを抱くようになった。もっと言うと、そんなアイデンティティに根拠が支配された上で「私は周りと比べ優越がある特別な存在だ。」と信じて疑わなかった。
だから、高校に入って色々な人と接し(他にも色々あり)、自分が(根本的に)「特別な存在でない」と言うことを知った時、自分の「存在価値」が全く分らなくなってしまったのだ。「努力して解決しよう」とは思った。しかし、学習内容を完璧に理解したかった私には時間が足りなかった。「なぜ」をとことん解決する勉強がしたいのだけれど、量が多すぎる。ゲームの攻略のように、多くの量を効率重視でどんどんこなしていく、そんな学習に強いもどかしさを感じた。心のなかで自分のしたい学習との矛盾を感じながら日々行われる授業に曖昧な知識で参加し、「正解」は決まっているのに生徒同士のディスカッションをさせられ、塾でとっくに予習が済んでいる人や数学好きの天才型との差を見せつけられ、ディスカッションについて行けないとなんとなく萎縮してしまうような気分になり、それでも雰囲気的に仲良くなろうと思って(自分のコミュ力の問題だと思って)初めて自分で自分を「卑下する」という手段をとった。これは相手が自分と同じように問題について「よく分らない」という人でも同じだ。というかむしろ、そんな人が7割くらいだったと思う。結局お互い、教師から「考えろ」と押しつけられた難題に対し「分らないよねー」で沈黙。やっぱり雰囲気悪くなり、自分のコミュ力の問題だと思って無理矢理話をふると高確率で自己を卑下する内容に結びつく様になる。そしてそんなことにも段々疲れてきて、ついに「相手のこととか仲良くとかどうでもいいや」となると、いわゆる個人主義的思考が加速しクラスは殺伐としていく。「自分さえ良ければ」と言う考えで実際に自分が勝ち上がってしまうと、もう「自己責任」を重視する考え方の基盤は出来上がっている。私は前述の矛盾もあり、割り切って勉強することが出来なかったので勝ち上がることが出来なかった。しかしどうしても自分を「良く」できる存在とアイデンティファイしてしまう気持ちが消えないことから、授業に参加する度自尊心がすり減っていき、段々「今日は予習が済んでいないから」と授業を休むようになった。
そんなことがあってからの、「東大刺傷事件」である。私の学校での学習への疑問、とりわけその根拠となっている教育制度(とくに学習指導要領)への疑問はこの事件で決定的となった。人の価値観をここまで狭めてしまうような「教育」ははたして「教育」と言えるのだろうか。
さらに、学校では教師たちによく「君たちは将来日本を引っ張る位置につくんだ」と言われた。しかしそのような存在が社会のことも知らずにただただ受動的に勉強ばかりに最大の価値をおく形で学ばされていて良いのだろうかと思うのだ。社会を知ることで自分の価値観も広げられるんじゃないかと思い、政治についても関心を持つようになった。
「行動」の解釈
そういうわけで設立したのが、「この国の学校制度を考える会」だった。
つまりはあの「行動」は、こういった私の「困難」を経てのことなのである。
竹田青嗣が『現代思想の冒険』(1992年)の中で、
「だからわたしたちは、優れた思想のうちに、必ず、ひとりの人間が、与えられた生の条件の中をどのように生きようとしたのかという、個人の生の痕跡をも見るのである。」
「思想は、人間が自分のうちに抱え込んでいる一般的な<世界像>に対する違和の意識から発し、この<世界像>や価値観に対する意識的な抗いの行為である。」
と言っていたが、(もちろん自分の「行動」がとりわけ優れたものだったとまでは思っていないしむしろ手段としてはありふれたものだったが)私のこの「学校制度を問う」という、いままでの学歴主義に対する<世界像>の編み替え作業(思想)の結果としての「行動」は、まさに「困難」「違和」の結果ということなのだ。
昨今、SNSを中心に「思想が強い」という言葉を多々見かけるが、その流行が示すものは、変化を嫌い、「変化へのアプローチ」を冷笑という強い引力の共感性を利用し、倦厭して自分たちから遠ざけるという意味で現状の<世界像>を肯定する態度にすぎない。そこでは、一個人の「困難」といった類いの「真面目な」話は受け入れられない。「困難」を抱えた人々がいままでの自分の努力の土台だった自己の<世界像>を肯定するためには、「自嘲」という手段をとるほかないのだ。
ポスターの件について、SNS空間における同校・近隣学校生徒(一高、宮一、二華、東北大学など)による誹謗中傷・嘲笑の数々は若干トラウマ化するほど強烈なものだった。学校では皆沈黙しているのにSNSという「裏」ではしばらく話題になり過去ツイートや「行動」についてかなり非難されていたりするのを見ると(元々学校用として匿名のアカウントがあったから余計目に入ってきた)前から休みがちではあったのだがますますクラスに行かなくなった。
私を嘲笑してきた人たちのツイートを見ると、「留年」だとか「赤点」だとかいうワードがよく目につき、内容的にも、学校という制度にあまり調子よく乗れていない感じがした。
私はこういう、まさに学校生活に充実感を感じていないような人にこそ、私のこの「学校制度を問い、もっと価値観を広げよう」というような考えに何らか反応して欲しかったし、そういう既存の制度下では大変な状況にいるからこそ斬新なアイディアが生まれるんじゃないかなあと思っていたのだが、こうして「困難」の維持と引き換えに変化を好まない多数派の安全地帯から「嘲笑」(そして彼らの多くが「自嘲」もする)という手段を選ばざるを得なかったことには、何だか残念な気がするかもしれない。
「行動」と友人
ただここでとくに言っておきたいのは、私は決して「行動」を馬鹿にするな、とか、思想を理解して欲しいと言いたいわけではないと言うことだ。
言いたいのは、騒動の後、私からはなれていった友人たちに対して、「行動」は「困難」の結果として表われたものにすぎず、それよりも「私個人」の「困難の軌跡」なんだと、「私個人」の話として話を聞いてくれたら嬉しかったということ。
高桑和己 著『哲学で抵抗する』(2023年)でも語られていたように、重要なのは「共感」ではなく「感情移入」の体験ということだ。
「行動」が政治的「洗脳」の結果だとされたことへの私からの批判と弁明は以上とする。
いま、自分の考えを臆さず述べたり突飛な「行動」を起こすことがためらわれがちな窮屈な学校社会の中で、少しでも多くの「困難」に抗う「変化」がありますように、ということでvol.1を締める。