「分断」の時代に政治に興味を持った一高校生の本音(備忘録)
今、私は自身の「政治」に対する向き合い方や姿勢に強い葛藤を持っている。 持っているはずなのだが、知識を得るにつれ、どんどんそういう昔の感覚から遠ざかってゆく。いままさに、その感覚を、逃がさないように、必死に、緩やかに捕まえながら、残さず記録しようと努め、少し緊張しながらこれを書いている。
なぜ、記録するのか。それはこれから社会や人々を見るときに(特に政治的無関心について)検討違いな思い込みを持ったりせず、なるべく正確に捉える材料としたいからである。そして、少しでも日本全体の(特に同世代の)もどかしい現状を変えるための提案をしたい。またこういう大義めいた理屈以外にも、純粋に私自身、日々迷いの連続の中に生きているため、いつもつけているノートにため込むだけでなく、こうやって家族以外の第三者の人たちに自分 の葛藤をさらけ出し、もしかしたら何かよい解決策が見つかるのではないか、と(軽率だが)思ったからである。
だからこそ、いまの私の感覚を、ほんとうに正直に残そうと思う。
ということで、早速書いていく。
※根本的に、政治知識も経験もまだまだ足りない一高校生の純粋な感覚である、ということ をあらかじめご理解ください。
※ここでは今の「保守」「リベラル」を、かなりざっくりと二分しています。 いつもsnsを使っている人は大体雰囲気として分かると思います。
※今の私の頭の中がごちゃごちゃなせいで、文章も締まりがなく、かなり読みづらいです。
しかも長いです。ご了承下さい。
①Day1
私自身の政治的立場は、これまでの発言や実際の問題意識含め、今の日本の現状から相対的に見たときに、いわゆる「リベラル左派」という部類に属するらしい。しかし一方で、 私はそのカテゴライズに不服である。なぜなら、私はそういう“思想”としての区分けより、自分たちの考えは「まとも」で常識的判断である、と思っているからだ。 確か、スタンダップコメディアンの清水宏さんは、「日本には右翼も左翼も存在しない。 あるのは下翼(かよく)と上翼(うよく)だけだ。」と言っていた。
いまもなおそのことに疑いはない。 けれど、いわゆる「ウヨク、ホシュ」を自称する人たちも、自らのことを同じように思っているんだろうと推測されるから、悩ましく思う(特に同世代)。
特に私の Twitter の投稿には、bio 欄に「中学生」「高校生」と書かれた保守系を自称す る政治アカウントから、リプや引用リツイートで「それは違うんじゃないか」とか、「~ で草」とか、他にも例えばもっと尖った批判なども時々くる。
私は彼らの考えも知りたいと思い、それらのアカウントを遡ってみたりする。すると、 さらっと文面を見た感じでは「なるほど。」と思えるような意見や、こちらの TL には全く出てこなかった情報が多く見つかる。こういうのが彼らの主張の根拠として支えているんだろうなあと思う。また同じことは Twitter のトレンドにも言えて、何気にタップした話題を開くと、保守系の人たちの意見で埋め尽くされていたりする。不思議なことに、リベラル系からの主張はほとんど見つからないことも多い。私は彼らの意見を、目 についたものから深く精査したくなる。「これこれこーいうところが、こーいう理由で おかしいから、それは違うのでは」と頭の中で整理してみたりする。しかしながら、これはリベラル系の TL を見ているときもそうなのだが、自分でも「ほんとうにそうなのか、それで良いのか」と自分の意見に少し引っかかるところはあり、追加で調べたりす る。
けれど、SNS の速い情報の流れの中で、一つの証拠や情報を見つけたら、それだけで鬼 の首を取ったようになり、その1つに依拠して自らの正当性を証明できた気になる。 私はなんだか、そういう状態がもどかしく(「なぜ」が次々とでてくるのだ。SNS によって出来ることも多くなったが情報の流れが速すぎる&ただでさえ時間がないなど、流動的で、見えない制限も出来たように思う)、「なぜ」「どういうこと」「例えば」と問い、 徹底的に調べたいが、きりがない。 また、リベラル系・保守系ともに、意見を主張する際にはそれなりに根拠や証拠を提示 しているのだが、それが多すぎる。しかも半端だ。もし私が1ヶ月、保守系のツイート で TL が埋め尽くされているようなアカウントで過ごし、他の情報の一切を遮断されれ ば、きっとそういう意見の渦に飲み込まれざるを得なくなるだろう。
こういう状況の時、果たして「いろんな意見があるよね~」で済ませて良いのだろうか。 全ての意見を同じ質量で全てを扱うのが危険であったとしても(←これがいわゆる、オピニオンが分断している状態?)私たちは相対的な中立性を保たなければならず、そうでなければ「偏っている」だとか「思想が強い」とされてしまうのだろうか。そもそも「危険」という言葉自体、はたから見たら胡散臭いのかもしれない。
幸いにも私の場合はまだ政治や社会に興味があるから、これから自分で本を読んだり勉強していこうと思う(本は1冊読む時間はその人の考えにどっぷり浸れるので、知識量的にも、時間的にも余裕がありとても良いと思うのだ)。その中で、きっと自信を持てる自分の意見や知識に出会えるだろう。だが、例えばこれが、学校の勉強や部活に忙しい中高生、また大人でも、他に頑張っていることがあり、あまり時間のない人たちだったら、 どういう風に向き合うようになるだろうか。恐らく、TV のコメンテーターの意見や、 たまたま流れてきた記事に「なるほど、そうなのか」と思い、そのままアルゴリズム的に流れてくる記事を参考に意見を構築するだろう。もしくは、SNS で流れてくる短文の “強い”意見を嫌悪し、また読むのも面倒な難しい言い回し&長文の投稿に辟易し、そしてそれと自分の今までの感覚とのギャップに、また対立する(いわゆる“多様な”)意見の消化に疲弊し、 思考放棄またはそれっぽい冷笑系・諦め系に共感するようになるだろうか。
先にも触れたが、同世代を見ていて、また私自身含め(もしかしたら日本人全体?)、 “偏り”を極度に恐れる傾向にあると思う。ここでいう偏りとは、いわゆる「思想が強い」 という言葉に表されるような、自分の絶対的な意見を強い言葉で言える状態のことで、 究極は、日本赤軍とか全共闘とか、(これを並列に並べて良いのかの問題はあるが、あくまでもこういうイメージとして括られるのだ)「過激」に対する漠然とした、“分らない”恐怖がイメージとして実際私たちには多かれ少なかれあるのだ と思う。特に同世代で強まっているというのは、私たちは他の世代と比べ、繊細で、メンタルヘルスに敏感な人が多いという点で(鬱、自殺の増加、最近では HSP を自覚する人も増えてきた。)、「相手を傷つけてはいけない」とか、「意見を尊重しよう」とか、 「政治に興味を持つのはエライ」とかいう、なんだか模範生徒的な了解の浸透しているからだと考える。金子大介さんの『いい子症候群の若者たち』はまさにそういう我々の 状態を述べていると思う。別にそれ自体が悪いことではない。(ただ、私個人的には性に合わない→冷笑系が発展してきた理由の1つなのかもしれない)。
しかしながら、「いろんな意見を尊重しよう」 という言葉のわりには、いわゆる“強い”意見は避けたがる。これはつまり「いろんな意見を尊重しよう」という言葉の中に、強い意見は言わないで、という意味合いの同調圧力が内在していることを示すのではないか。偏りを避けようとするあまり、事実よりも 空気や相対的な中立性が先行して意識され、そういう意識だけでは全く見当違いになってしまう話題も扱われてきた。(正確には、一応事実を知ろうとするのだが、ニュースや SNS だけでは何の情報を信じたらいいのか、とか、どういう意見言うのが「正しい」のか、 「それなり」なのか分らず、そして情報にはきりがないため、追求することを断念し疑問に蓋をするのだ。)
そしてその世の中はもっと複雑で、いろいろと都合によるものも多いことで、全ての意見が同じ質量で扱われることは危険と思うのだが(不寛容への不寛容という風なこと や、倫理的問題)それが上手く浸透できていない。恐らく、ひたすら温室的な道徳教育と、政治教育の欠如に起因していると思われる。そして私自身、そういった教育の影響 を受けまくっている。つまり、世間知らずなところがある。これは個人に限らず、一連の道徳教育による世代的な問題が強くあるのではないかと思う。
思うに、SNS や TV 等の情報はもっと高次の情報で、自らの土台となる「知識」をもって初めて使いこなすことのできるツールではないだろうか。その土台としての知識と は、政治教育や、他人への共感能力を育む“エンパシー”の教育、そして読書であると思う。政治や社会についての向き合い方やよりよい民主国家としてのメンタリティやリテラシーは、算数・数学と同じで、1日で習得できるものではないと日々痛感している。 何年もかけて、階層的に積み重ねやっと本質的に身にしみてくる学びなのだと思う。 いま各所で「政治に興味を持とう」ないし「政治の話をしよう」という声が徐々に上が りつつあると思うが、こういう理由があって、正直今の日本の若い世代(私含め)のメ ンタリティでは、徒労というか、対応出来ないのではないかとうすうす感じるようにな ってきた。端的に言えば、土台もなっていないのにいきなり「生」の政治に関わろうとするから混乱が生まれてくるのではないだろうか(自戒を込めて)。
小中学校の社会の授業は、浅くて薄っぺらいしみんなテストことしか考えていないか ら、正直意味ない。やっと高校で実のある「社会」を、と思ったとき、高校の政治経済 は1年次を除き選択制なのである。(今の高1 からは「公共」が採用されて、私たちまでの代とは若干カリキュラムが異なっているが、今日本に生きるほとんどの有権者に政治教育が施されていないことに変わりはない)
以上のような日本の現状から政治を考えると、特に若者世代に与党支持・保守層が多いのは必然かと思われる。民主国家の国民として、「判断」の土台としての教育を受けられず、いきなり高次の情報の渦に巻き込まれた私たちにとって、「何が正しくて何が正しくないのか」判断し、自分の意見を構築できる力はない。情報にふれ「偏りなく」考えようとするだけでエネルギーを消耗してしまう。リベラル系の学者の発信は「なぜ」がたくさん出てきて、比較的単純な保守系の意見は非常に口当たりが良いのである。これは必然と思われる。 それに、温室的道徳教育のせいで、批判に対しての耐性が薄く、保守系はなんとなく善 に見えるし、適度に批判してくれる与党政治家がいればそこまで「偏っていない」よう に見える。与党の中しか眼中に入れていないようにも思える。実際、私の周りでは、自民党の小野田紀美氏の評判が異様に高い。そして、政治家のバックグラウンドや利権構造、日本の戦後という根本的な問題点を理解せず(敗戦国という自覚なく)その場の小 手先の政策に、そこだけを見て「まあいいんじゃない?」となる。
一方で、この分断を改善するキーは私たちのような世代にもあるのかもしれないと思う。
というのも、なるべくいろんな意見を尊重しようとか、偏りなく考えたいという純粋な 意識が、比較的オープンな議論の中で「事実ベース」で語られる主張に対し引きつけられやすいのではないか、と思うからだ。 分断を加速させているのが、本質的な日本の問題点への注目度の低さだとしたら、重い 枝葉の部分をみて「偏りたくない」と政治に近寄りがたさや嫌悪感を持つ人々にとって、 シンプルな事実は口当たりが良く、かつオピニオンとしての共通認識を持ちやすいので はないだろうか、、、。
(これは後に書く。)
②Day2
しかしまだ葛藤は繰り返される。
何がほんとう(ファクト)で何が詭弁なのか。 「衆愚」とは何なのか。
わたしたちは今の政治状況をどのように見ればよいのだろう。
「衆愚」という言葉1つとってみても、安易に使ってはいけないと最近思うようになった。 私たちは彼らの「選択」を何をもって“衆愚”と決めつけることができるのだろう。何がよく 思考された選択で、何が既得権益のための選択なのか。 どのレベル感をもって、思考されたといえるのか。
今の社会は特に生きづらい。それだけは確かだ。 しかし、何が危険で何が正しくて何が現実的なのか。 それぞれが自分自身の問題をかかえ、社会に対し意見を持ったりこうなってほしいと願う、 ただそれだけのことなのに、いろんなものが邪魔をして枝葉が大きく重くなってしまう。
もっと大きく、日本を歴史として見ても、やはり本質的な問題が見失われているような気が してならない。
このままでは、皆が本質的なことをよくわかっていないまま、保守・リベラルともに双方の 大きな声に流され、自らの判断と思考を委ねていってしまうのではないかと思う。
「何が正しくて、何を疑えばよいのか、SNS の情報の洪水のなかで判断できない。」 友人と政治の話を少しした時、結論として帰着したのがここだった。
今の日本は危機的状況にあると思うが、実際何がなんだか、どういう選択をすればよいのか、 分らないのが本音である
例えば、中国は脅威だと思う。アメリカももちろん脅威である。だが、どちらに重点を置くかによって世界がまるで違うのだ。この些細な枝分かれが、途方もない分断を引き起こしているよう にも見える。
Day1 にも書いた通り、何の知識も経験もないまま双方の意見を見ると、それ ぞれが、一見「そうなのか」と納得できるような意見で、だからこそ、どちらの世界に属し ているかによって、多様な問題にたいする自分の意見が自動的に決められてしまうような 気がする。 しかし、そのある種の誘導が、学びの近道としてみちびてくれているような気もする。 考えが足りなく、その自覚もなかったとき、気づかせてくれるような。
③Day3
近頃、「ひろゆき」氏や成田祐輔氏のような、"歯に衣着せぬ"というカテゴリーに雑に括られる言説が猛威を奮っているが、私は彼らの言葉を度々非難しつつ、心のどこかに引っかかるものを抱えている。
というのも、「単純に」「(自分からのみ見て)合理的に」、ゲーム感覚で機械的に社会を作ろうとするならば、納得がいってもおかしくない、手に馴染みやすい考え方だからだ。
しかも、我々若い世代にとっては、その考え方が一般人の斜め上をいくような、クールで賢そうな言説に見えるからだ。
もちろん、そういった感覚は「想像力が足りない、共感能力が云々」と言われても仕方がない。しかし、果たして、我々のそういう、普段常識的に聞こえる社会の持続可能性を考慮したような意見は、それ自体が「持続可能」であるといえるのだろうか。
というのも、これからのIT化技術がますます発達する時代、メタバースや仮想現実といった空間での生活が現実的となってくる。何かで見たのだが、そういう時代ではもう国家も社会も自分で選択できるようになるのではないか、ということだ。
もしかしたら、ああいういわゆる「単純」で「合理的」な言説は、もう少し先の時代では許容させるものなのかもしれない。
また、それとおなじように情報の洪水の時代に適応して、「信じたいものだけ信じる時代」も来るのかもしれない。
しかし、先は先だ。急速に変化する社会情勢のなか、今の現状に目を瞑っていたら、それは現実逃避だろう。
一人一人の選択が非常に重要で、問われてくる。
では「民主」とはなんだろう。
シティズンシップ教育とはなんだろうか。
ここまでが、ごちゃごちゃとした私の本音であり疑問である。
長文失礼しました。私の頭の中のごちゃごちゃを、とりあえずそのまま書けたので、もっと勉強してからこれらを整理しようと思います。
(おまけ) (備忘録)
ただ、1つ、今の民衆の政治的対立について確信的に思う正直なところを書くと、いわゆる保守系の人々は、
・批判や非難が自分の意見と対立する人々(=同じ民衆)に向けられていることが多い ・嘲笑のためネットスラングが使われていることが多い(→2ちゃんねる系の情報サイトとの親和性が強い)
・日本好きを主張していることが多い←?
・ウヨクやサヨクなど、カテゴライズの言葉を用いて主張したり、bio 欄に自らの政治 的立場を明示していることが多い
・「共産党」のインパクトと汎用性が高すぎる
一方相対的にリベラル系の人々は、
・基本的に批判や非難は常に権力側へ向けられている
そして両方に言えることは
「〜って言ってる時点でもうw」
「あっち系の人たち」
とかいう、絶対に入れ込めないグループというか、小中学時代のいじめっ子グループを彷彿とさせ、いじめられる気分を思い出させてくれるような言い方をする人もいる。
ということだ。
これでは政治がますますとっつきづらいものになるのも無理はないだろう。
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