映画『威風堂々』に見る若者の「現実」
目の前に立ちはだかる「奨学金」
本作は、奨学金をテーマとしながら、令和の若者に内面化された自己責任意識に深く切り込んだ作品であるーー
「苦学する学生を助けたい」
「パパ活」の「顔合わせ」で食事をする主人公の大学生・唯野空に、「パパ」の男性・島崎はそんなことを語った。
空は奨学金を借りていて、その返済のためにお金をいまのうちに貯めておかねばならず、さらに生活費にも苦しんでいた。
しかし、パパの発言は、結果的に「パパ活」によって「お金を払う」という形で学生が苦しむ元凶となっている体制に加担、「(お金に困っても)やろうと思えば何でもできる」という自己責任意識と経済構造を回している。
結局、彼女はますます苦しむことになるーー
そんな中で出会ったのが「ハードな考え」の持ち主、九頭竜レイだ。
レイの過激で吹っ切れた経済観念に空は驚愕し、ことばを失う。
「私はこんな風にはなれない」
ーー空はこんな風につぶやくしかなかった。
空が唖然とした相手はレイだけではない。
クラウドファンディングによってお金を集め、奨学金を一瞬にして返済した大学生・水江聡太は、奨学金という制度そのものを廃止し、大学学費を無償化しようと街頭演説や政治家への交渉を行う。聡太が政治運動を行うことになった一番のきっかけは、学費を自分で工面しながら医学部に通っていた兄の存在だったーー
レイや聡太はそれぞれ持ち合わせの能力で、不可能と思われる課題をあっという間に解決し、自分のやりたいことのため上へ上へと上っていくように映った。
一方、経済的理由で空は彼氏・蛭間拓人と同棲を始めた。奨学金を借りながら、なんとか生活をやりくりする空を横目に、拓人はyoutuberで一発上げようとし、ろくにバイトもせず空のカードを勝手に使用して機材を揃えてしまう。
愕然とした空は家を出ていき、その後パパ活(顔合わせのみのライトなもの)にのめりこむようになっていくーー
パパ活、クラウドファンディング、youtuber・・・
このように、SNSをはじめネットの普及によって「誰もが何ごともできる時代」ないし「誰もが何者にでもなれる時代」が、いまだ。
それは一見、だれにでも可能性が開かれていて、自由で素晴らしいように見える。
しかし一方で、できる人/できない人、ないし、稼げる人/稼げない人の格差は、持ち合わせの特性や「偶然」の連続でますます広がる。
そして、その格差は「誰もが何ごともできる」開かれた可能性と自由さの下で結局「自己責任」に片づけられるというのが、まさに私たちの生きる「現実」だ。
奨学金制度もそんな「時代」にまさに寄りかかった制度であり、よって奨学金が学ぶ機会にとって”開けた”制度で、経済状況に関わらず学生を応援するというのはまったく詭弁であることを作品は示している。
その意味で、奨学金は、この社会でうまく生き抜ける人間か/そうでないかが試される第一関門とも言える。
作中で空は、奨学金を全額返済するころには40歳になってしまう、と絶望するが、社会に出る前に、「社会」という「賭けゲーム」に強制参加させられ、平均40歳くらいまで労働に拘束させられ続ける、それが奨学金制度なのだ。
そしてもちろん、うまくいく人はそんな不毛なゲームの駒からは早々に離脱していく。
さらにいまの社会は、一度脱落するとそれまでのように復活することは難しい。
しかしそれも「自己責任」。
奨学金返済や学費・生活費の工面に苦しむのも、何者にもなれないのも自己責任であるーー本作は奨学金問題を軸としながらも、内面化された自己責任意識の中さまざまな方法で「時代」を生き抜こうとする若者の絶望と奮闘が描かれているのではないか。
翻っていま社会を見渡すと、2024年9月現在、自民党総裁選のゆくえが連日ニュースを騒がせている。
各候補者は奇麗な文句を並べ自身を宣伝する。
そんな疑似的な希望の誘いに、私たちはついうっかり救済を見出し、そのお題目に自分の運命を寄りかからせたい気分になってしまうーーなんてことはないのかもしれない。
いざふたを開けてみると、回りくどい言い回し、内輪に伝われば良い小難しい政策、質問に対する答えになっていない回答...。
実際に演説する候補者の声は聴衆を置いてきぼりで、やっぱり「まあ、こんなもんだよな」と思う。
先日、私は高市早苗候補に直接「国公立大学学費値上げ問題」を問うた。
高市候補は「経済状況に寄らない進路選択の自由を」とHP内で説いていたからだ。
しかし返ってきた回答は、「来年度からの大学運営交付金の増額を要求した」ということのみで、来年度からこそ学費増額に踏み切る東大の学生の助けにはまったくならない。
「いま・ここ」目の前にある問題を全く無視した答えであった。
政治側と私たちの「目の前」には途方もない距離がある、そしてきっと私たちの側も、内面化された自己責任意識によってその距離感を自覚している。
もはや政治のことを考える余裕すらないかもしれない。
そんな中で、政治家は「個の尊重を」「一人ひとりが輝ける社会」などと謳う。
しかし、いま目の前で困っている「個」としての私たちを無視し、さらに外面は聞こえの良い政策やキャッチフレーズを掲げてむしろ富める人、そうでない人の格差を拡大させ、目の前で苦しむ人々を「自己責任」という絶望的な渦に葬ってきたのは、なによりこれまでの「制度」であり政治ではないか。
そんな問題意識が、この作品から痛切に感じられるのだ。
私の経験と実感
「自己責任ではなく、少しは社会のせいにしていいんだよ」という言説は、とくに日本のリベラルな空間で多用されてきたように思う。
いわゆる、60年代以降のアメリカフェミニズムのスローガンである「個人的なことは政治的なことである」の多義的解釈の一種である。
しかし、そのある種教条的な「優しい」空間の提示は、個人と政治の境界線をほとんど示さなかったがゆえ、政治的無関心層からは忌み嫌われがちで、「なんでもかんでも政治に結びつける」「批判ばかり」「わがまま」だと非難されていた節もあった。
だがこの映画は、「誰でも何ごともできる」時代に必然的に内面化された「自己責任意識」という論理的文脈で解いている点、上記の凝り固まった言説とは確実に一線を画していると思う。
要するにこの映画は、なにかの既存の政治的主張に乗っかっているのではなく、本当の意味で「いま・ここ」を丁寧につかまえることに成功しているのだ。
実際私は、登場人物たちと同年代の20歳だが、その左派空間での「自己責任論批判」の言説で回収できなかった自分自身の息苦しさ(同世代的・同時代的息苦しさと言って良いと思う)に、この映画によって気づかされた。
私はなるべく問題を起こさず完璧でいたいし、いままでもそうしてきた。
しかし、これまでのそれは家庭という屋根の下で、守られながら享受していた身体的・精神的安定であった。
そこでは普段の食やお金について、特段心配することなく「明日」が確約されていた。
でも、いざ大学に進学するとなると、さすがにそうはいかなくなった。
外に出れば、コンビニもカフェも妙に高い。
実家にいた時の当然ように食事してしまい、あっという間にお金がなくなってしまった月、親に「お金を貸して欲しい」というのは申し訳なく、勇気もなかった。
自動的に料理が出てくる高校までの生活が妙に遠く感じた。
隙間時間バイトのアプリをダウンロードした。
本当にお金に困っていたので、少しでも稼げればと家から自転車で20分程かかる、アパレル系のライン工場に応募して行った。仕事が終われば、ほとんどすぐに口座にお金が振り込まれる。
まだ薄暗い朝5時に、指定の動きやすい服装で家を出て、2時間半ダンボールを仕分けしていた。
同じ場所で作業していたおばさんはここでパートで働いているのだという。大学生の息子がいるそうだ。
「大学の学費もあるし、少しでも稼ぎたいからね」
「あなたも、ぜひここで働いてくれたら嬉しいわ」
絶対嫌だと思ってしまった。
2時間半で、2800円。
「明日」の安心を感じたのは初めてだった。
同時に、「あ、お金って自分でどうにかなるじゃん」
と思った。
「頑張れば1人でもなんとかなる」
その後も、飲食やチラシ配り、スタートアップ企業からのzoomアンケートなどで稼いだ。
しかし勉強との兼ね合いで体力もない。
とうとう親に「お金、貸して欲しい」と言った時、その罪悪感は辛かった。
それでも全て、「自分でなんとかできなかった自己責任」なのだと思った。
自己責任意識は確実に私たちの意識の奥底に内面化している。
それは当然である。
制度が、機器が、いま目の前でそれを保証している。
不満があるのなら、指一本動かせば良い。
YouTubeには常に「賢い」節約レシピ紹介が山ほど並び、「1週間2000円の二人暮らし」ができる人もいる。
「買わなきゃ損」と謳ってコスパ最強を説くアイテムもある。
しかし発信するインフルエンサーは、この再生回数でゆとりある生活をする。
「どうにかできない」ことはない、方法ならたくさんある。それでもしない、できないのは自己責任。
自民党総裁戦の演説で小林鷹之候補は「現実的な選択肢として、旧姓の通称使用が制度的にどんどん手当されている。国民の皆さんに周知されてない部分はありますので。」と語った。
昨今、政府は新NISAを推奨し、国民に株式投資・資産運用に励むことを促す。
そうなのだ、制度を上手く利用できない個人が悪い、行政の説明がどんなに分かりずらかろうと、私たちに煩雑な制度を理解するキャパシティがなかろうと、政治は提示しているのだからすべて「自己責任」なのだ。
政治もそう言っているーー
「政治家は何言っているかわからない」「どうせ投票しても」
すでにそうした政治への諦め感が漂うこの社会において、正直私たちは「いま・ここ」にどうしても生きる自身を認め、どんな運命に流されようとも、自己責任で自分自身の現実を堂々と生きるしかない。
本作品では、そんな諦めと自己責任意識の土壌の上で、それでも令和を生きる力強さを、クラシックの名曲「威風堂々」が支えている。
いまのこの社会で、唯一私たちを輝かせ尊重してくれるもの、それこそが「威風堂々」なのである。この曲こそが「個」の尊重であり、どんなときも味方でいてくれる心の支えであり、この社会をサバイブする最強の武器だ。
この「賭けゲーム」のような社会を生き抜くために必要なのは「お金」でも「力」でも「運」でもない。
落ち着いた心持ちでずっしりと構え堂々と生きる、そのための一曲で良い。
この映画は、社会や政治への常態化された諦めと絶望感、あるいは自己を背負う重さの窮屈な息苦しさの中、それでも「明日」を生ねばならない若者たちに勇気と涼しい風をもたらしてくれる、そんな作品である。
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