アントラセンが真ん中でしか反応しないわけ(1)
1. 背景
anthraceneの[4+4]光環化反応やDiels-Alder反応,臭素化など,anthraceneが反応する場合,なぜか真ん中の環(9,10位)だけが反応したり,反応しやすかったりします.
同じ構造の環が三つ並んだだけの分子なのに,なぜ中央だけがこんなに反応性が異なっているのでしょうか.
このシリーズでは,この謎を解き明かすために,まずはanthraceneの反応の一つ一つに着目して反応点の選択制について議論することにします.
今回の記事は,その第一弾としてanthraceneのDiels-Alder反応に着目したものです.
1.1. Diels-Alder反応¹⁾
Diels-Alder反応とは,Fig.1のように1,3-ブタジエンのような共役ジエンがほかの不飽和結合(ジエノフィル)と反応して起こる環化反応のことを言います.
一般的に,共役ジエンが求核剤,ジエノフィルが求電子剤として働く場合反応が起こりやすくなります.
また,Diels-Alder反応は可逆反応であるため,反応生成物が複数考えられる場合,高温で長時間反応させることで正反応と逆反応を繰り返し,熱力学的に安定な構造が優先的に形成されます.(熱力学的支配による選択制)
1.2. anthraceneのDiels-Alder反応における選択制
ここでは,Fig.2 のようなanthraceneと1,4-benzoquinoneのDiels-Alder反応によってトリプチセンの前駆体骨格が形成される反応に注目します.
1,4-benzoquinoneは1',4'位に電子求引性のケト基があり,求電子剤として働く優秀なジエノフィルです.
一方,anthraceneは一見芳香族化合物であり,ジエンとして働くようには見えませんが,部分構造を見ればジエンとして捉えられる箇所がいくつか存在します.
例えば,1, 4位を両端とした共役ブタジエン骨格や,ほかにも9, 10位を両端としたもの,5, 8位を両端としたものが見いだせるはずです.
しかしながら,anthraceneの反応において生じる生成物は,9, 10位を反応点としたTPQのみです.
ここでは,この反応点の選択制について,フロンティア軌道論や熱力学的な選択制に基づいて議論します.
2. 検証
上でも議論した通り,anthraceneのDiels-Alder反応は9,10位以外にも反応点がありそうなものですが,実際には9,10位で反応が進行したTPQのみが生成されます.
第2節では,この選択制の由来について具体的に検証していきます.
2.1. 考えられる反応点
Diels-Alder反応は,求核剤である共役ジエンのHOMOが求電子剤であるジエノフィルのLUMOと相互作用することで進行します.
この時,ジエンのHOMOとジエノフィルのLUMOは,反応点において位相がそろっている必要があります¹⁾.
ここではanthraceneが求核剤,1,4-benzoquinoneが求電子剤ですから,anthraceneのHOMOと1,4-benzoquinoneのLUMOに着目して議論を行います.
Fig. 3は,PBE0(D4)/ma-def2-SVPレベルで計算されたanthraceneのHOMO及び1,4-benzoquinoneのLUMOの分布を示したものです.
1.2節で紹介した反応のように,anthraceneの9,10位で進行する場合では,1,4-benzoquinoneの2'及び3'位のLUMOの位相とanthraceneの9, 10位のHOMOの位相がそろっていることが分かります.
また,anthraceneの1,4位や5,7位も1,4-benzoquinoneを反転させれば位相が合うため,これらも反応点となりえます.
2,3位や6,7位も位相は合いますが,仮にここを反応点としてDiels-Alder反応が進行した場合,4員環が形成されるので明らかに熱力学的に不利な反応です.そもそもDiels-Alder反応は共役ジエンの両端との反応ですので,これらは除外してよさそうです.
9位のo位と10位のoのような奇天烈な反応点も考えておきましょう.位相自体はそろっているので,一見反応が進行するように見えますが,1,2,3,4位と5,6,7,8位の芳香族性を失うため,進行しないと考えてよいでしょう.
従って,ここで考えるべき反応点はanthraceneの1,4位,9, 10位,5,7位に絞られます.また,1,4位と5,7位を反応点とした生成物は同一のものであるため,ここでは1,4位と9,10位を反応点とした場合について考えます.
2.2. 考えられる生成物
2.1節において,1,4位も反応点となりうることが分かりました.ここでは,1,4位を反応点とした場合と9,10位を反応点とした場合に考えられる生成物の構造について議論します.
まず,1.2節で紹介した反応のように,9,10位が反応点となる場合はTPQのみが生成物として考えられます.TPQはFig.4のような構造の化合物です.
一方で,1,4位を反応点とした場合,1,4-benzoquinoneがanthraceneに接近する方向によって2つの生成物が考えられます.これらを仮にP1, P2と呼ぶことにします.P1, P2はぞれぞれFig.5 (a), (b)のような構造です.
2.3. 計算
何度も言及していますが,1,4位を反応点とした反応があり得そうなのにもかかわらず,実際にはTPQのみが得られます.この理由としては,1,4位を反応点としたP1, P2が生成しても,やがて逆反応と正反応を繰り返してTPQのみに集約されていくというものが考えられます.(熱力学的な選択制)
ここでは,これを実際に確かめるためにPBE0(D4)/ma-def2-SVPレベルでanthracene, 1,4-benzoquinone, TPQ, P1, P2の構造最適化と熱力学的諸量の計算を行い,
anthracene + 1,4-benzoquinone → TPQ (1)
の平衡定数K₁と
anthracene + 1,4-benzoquinone → P1 (2)
anthracene + 1,4-benzoquinone → P2 (3)
の平衡定数K₂, K₃を算出していきます.
それぞれの構造の基本骨格はChemSkecthで作成し,これをAvogadroに実装されたUFF力場で構造最適化した後,構造をxyz形式で保存してORCA 5.0.3でDFT計算を行いました.
inpファイルのヘッダは以下の通りです.
%pal nprocs 8 end
%MaxCore 1000
! PBE0 D4 ma-def2-SVP AutoAux
! TightOpt Freq
* xyz 0 1
計算結果はTable. 1に示す通りです.
Table.1 各化合物における計算結果
いずれの計算結果でも虚数振動はなく,問題なく構造最適化できていたことが分かります.
1,4-benzoquinoneは求電子剤らしく,LUMOのエネルギー順位がanthraceneより低くなっていることが分かります.また,antharaceneは求核剤らしくHOMOの順位が1,4-benzoquinoneより高いことが分かります.
P1のGibbs energyがP2よりも小さいのは,P1のquinone由来のπ電子とanthracene由来のπ電子が相互作用することで安定化されているためと考えられます.
上記の計算結果より,反応(1), (2), (3)の反応ギブズエネルギーと160℃における平衡定数は以下のようになります.
平衡定数は,以下の式を用いて算出しています.
$${\Delta _rG=-RT\ln{K}}$$
Table. 2 各反応の平衡定数の算出
以上より,anthraceneの9,10位を反応点とした(1)の平衡定数が突出して大きな値となっていることが分かります.
従って,anthraceneと1,4-benzoquinoneのDiels-Alder反応での反応点の選択制は,反応(1)の熱力学的な優位性に由来するといえるでしょう.
本来であれば,これに加えて各反応の反応速度を交えた議論をしたいところですが,それぞれの反応の遷移状態の構造についての計算(NEB-TS)は非常に時間がかかるため,この議論は続報に回すこととします.
3. 結論
ここでは,anthraceneと1,4-benzoquinoneのDiels-alder反応において,anthraceneの9,10位を反応点としたTPQのみが生成されることに着目し,これについてフロンティア軌道論や熱力学的な選択制に基づいて議論しました.
フロンティア軌道論に基づく議論では,anthraceneの1,4位,9,10位,5,8位が反応点となりうることが示されたものの,熱力学的諸量の計算結果から9,10位を反応点とする反応の平衡定数が$${2.29\times10^8}$$であるのに対し,そのほかの反応は$${10^2}$$以下のオーダーであることが判明しました.
従って,anthraceneの反応部位の選択制は,反応の熱力学的優位性に由来すると言ってよさそうです.
また,そもそも(2), (3)の反応は(1)と比較して反応速度が遅く,そもそも観測する時間内で進行しない可能性もありますが,この議論については別途の計算が必要となるため,別の記事での議論に回します.
4. 参考文献
1) 奥山格・石井昭彦・箕浦真生,『有機化学』改訂2版(丸善出版,令和2年9月),pp.256-258.