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第449回「泣いた赤鬼」を好きな自分がしたい事


自分はいつも文章が回りくどくて長くなってしまうので、今回はなるべく、短く端的に書こうと思っているのですが、

今世間で、未曾有の悪人バッシングが起きていますが「泣いた赤鬼」の話が好きな自分は、青鬼の行動をリスペクトしているので、悪人のバッシングをしないでおこうと思っています。

「青鬼は無実の罪を被った善人の話だが、今叩かれているのは、ただの悪人ではないか」と言われてしまうかも知れません。

しかし青鬼が善人なのは、赤鬼しか知らない事で、村人はその事実を永遠に知る事はないので、事実を知らない村人の自分は、例え相手が99%悪人なのだとしても、1%青鬼かも知れない可能性がある以上、やはりバッシングをしないでおきたいのです。

「実際に被害を受けている人がいるのに、お前は、何くだらない事を言っているの?」と言われてしまうかも知れません。

「それは悪人を擁護する、正しくない行為だ」と言われるかも知れません。

例えそうだとしても、正しくない行為だとしても、自分はそうしたいと思うので、そうするのです。

正しいとか間違えているとか、正義とか悪だとかを関係なしに、自分がそうしたいと思う行為の事を、自分は信念というのではないかと思っています。

だから自分は、例えそれが正しい行動ではなくても、自分の信念に従って、悪人のバッシングをしないでおこうと思います。

これはあくまでも自分の信念なので、他の人が悪人バッシングをする事に、異を唱えるつもりはありません。

ただ自分が、そうしたいだけなのです。


ちなみに自己犠牲という概念が嫌いな自分は、青鬼の行動を自己犠牲の精神と呼ぶ事に、強い抵抗があります。
実の所、青鬼の自己犠牲の精神を称賛する話なのだとしても、自分はやはりその呼び方には、抵抗があるのです。

「自己犠牲でなければ、一体何なのだ?」と言われると、言葉に詰まるのですが、青鬼のその行動を自分は、生き様と言いたいと思っています。

言葉の意味として、その定義が合っているのかはわかりませんが、自分は、自己犠牲という言葉には「人の為に自分の意にそぐわない事をする」というニュアンスを感じてしまうのです。

自己犠牲とはむしろ、今回被害を受けている女性が強いられた行為の事を
示す言葉ではないかと、自分は思っています。

青鬼は決して、自分の意にそぐわない事をした訳ではないのだろうと自分は思っているので、自身のゆるがない意思に従って行ったその行動を、自分はあくまでも、生き様だと言いたいのです。


「何か偉そうな事を言っているが、お前のブログはいつも、人の批判ばかりをしているけどな」と言われてしまうかも知れません。

「そして今回の文章も、回りくどくて結局長い」と言われてしまうかも知れません。

人間なかなか、自分がそうありたいと思う様には、生きられないものです。

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