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2022年4月〜5月 雑記

4/27

春が終わる。
さし迫る新緑が、春をぐいぐいと押し退ければ、毒毒しい躑躅の群れが春の足あとを踏み荒らしていく。彷徨うずんぐりな毛虫、雨に濡れれば、葉と土の匂いたちのぼる町。ビルの森は、どこまでも無機質で冷たい匂い。

あまり香りに意識を向けると、呼吸の仕方が分からなくなる。息を吸う、吐く。それだけなのに、それだけが分からない。

青信号を無視して、立ち止まってみる。誰も通らないのに、赤、青、赤、青。
「青信号って、緑じゃないの?」
小さい頃に尋ねたことを思い出す。
母は「青だ」と言った。
その日から青に見えるようになった。

そうやって、人は都合のよい形を刷り込まれていくのだと知った。


5/25

雨が降った。

小さな海が出来ては、数多のモノクロの巨人たちに踏みつけられていく。頭はずっしりと重たい鈍さが研ぎ澄まされる。そんな日に、わたしは窓を眺めては、雨だれ達の競争を見守っている。生き急ぐ、死に急いでいる。小さい雫が素早く滑り落ちる。近くの大きな滴と一緒になれば、あとはゆっくりと二人で落ちていく。

そういうの重たくて、うざったい。

それに飽きれば、レコードをかける。ドビュッシーの一枚しか持っていないので、そればかり聴き続けていたら途中で音が飛んでしまうようになった。たしか、二年前の誕生日にいただいたものだ。

ずっと小さな頃から、自分が欲しいものを考えるのが何よりも難しかった。しかし、レコードはふと思いついて素直に頼み込めたものだった。だから大切にしたかったのだが、わたしなりに大切に聴いていたら、いつの間にか傷つけてしまっていた。

誰かにいただいたものを使うということは、いつか壊すということだ。億劫になる。一度懐に入れてしまうとなかなか出してあげられないから、そして大切なものが増えていくと抱えきれなくなって全て手放したくなる。傷つけるのが怖いなんて聞こえはいいけど、本当はその破片に自分が傷つきたくないだけ。ごめんなさい。

だから、わたしは、それこそレコードのように決まった痕をなぞらえて生きている。同じを繰り返している。繰り返していくと音が飛んで、どんどん不恰好になっていくから困ってしまう。好きな人には美しいものだけ見てほしいから、わたしを目に映してほしくない。大切になればなるほどきれいに見えて、自分の汚さが浮かび上がるようで耐えられなくなる。分からない。いつだって、きれいな人を好きになるせいかもしれない。それは外側の美醜に限らない。内面の話であり、聖人めいたように優しいとかではない。わたし個人の価値観の上にある、"きれい"である。

5/28

触れ合うと想いが通じ合うだとか、そんなことがあっては困るから、わたしに触らないでほしい。しかしどこか理解してほしいような気もして、それでも距離を置くから理解されなくて、結局はひとりなのだ。人間のこころの繋がりなんて、たかが知れている。自分と自分すらもうまく接続できない人物が、誰かと繋がるなんてあり得ない。

自分のことが見えない。
だから、自分を一番に大切に出来ない。

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