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粒≪りゅう≫  第十三話[全二十話]

第十三話


「それにしても、未だに信じられない。何だか嘘みたい。」

「あの時はもう、ほんと、家に帰ってきたことを後悔したもん。マジで、もっかい出掛けようかと思ったよ。」

と、口をモグモグさせながら、あんが言う。
 確かに、それはそうだったろうなと、粒は思う。
魁が、突破口を開いてくれたあの日、あんは、友人と映画鑑賞に出掛けていた。友人と楽しいひと時を過ごし、映画の余韻に浸りながら帰宅した、あんを待ち構えていたのは、いつもに増して暗く重い家の中の空気だった。
 
 何事かと思っただろう。そこにいた父、兄、母、誰にも何も尋ねることのできない空気。まさか、あんな話が出ていて、こんな事になるなんて、夢にも思わなかっただろう。

「ね、本当に、信じられないね。でも、夢じゃないよ。」

あんは、迷わず粒と共に、家を出る事を選んだ。というか、望んだ。
父親に何と言われようが、一切耳を傾けることなく、本当にあっさりとしたものだった。

「お母さん、良かったね。お父さんと離れて、なんか、若返った気がするよ。」

食後に淹れたコーヒーを飲みながら、ふたりで、心からほっとする。

「ん!そういえばさ、今日授業で、面白い話聞いたよ!」

あんが、目をクルクルさせて、忘れないうちに、と言わんばかりに早口で話し始める。

「あのね、どこかの大学での実験らしいんだけどね、男子学生が着用したTシャツの匂いを女子学生に嗅がせて、好みの匂いの物を選ばせる。そうしたところ、MHC遺伝子っていう遺伝子の値が、自分のものから遠い男性のTシャツほど《好きな匂い》って答えたんだって。」

「そのMHC遺伝子っていうのは、免疫にかかわる遺伝子らしくて、これが多様であるほど、感染症とかに対して強くなるんだって。だから女性にしたら、自分とは出来るだけ違った遺伝子を持つ相手と結ばれた方が、より強い生命力を持った子孫を残すことが出来るってわけ。生物って、どうもその遺伝子を、匂いでかぎ分けるらしいよ。」
「ね、面白いでしょう!」
「ようするに“いい匂いだな~”って感じる異性とは、遺伝子レベルで相性がいいってことらしいよ!」

あんは、どうだどうだ面白いだろう!という顔でニコニコしている。
 
 粒は、あんの話を聞いているうちに、だんだん胸がドキドキしてきて、頭の中は、星加のことでいっぱいになっていた。

“そうなんだ~。遺伝子レベルか~。かぎ分ける、というか、私の細胞がかぎつけたんだね、きっと。この人だ!って”

“ほんとに?”

「なんか、ロマンチックだね。」

「それに、なんだかわかるような気がするよ・・・そういう好きって思う匂い、お母さんも、感じた事があるもん。」

「まさか、お父さんではないよね。」

あんが、ちょっと顔をしかめて聞いてくる。

「お父さんではないよ。」

“思えば、配偶者に対して、いい匂いだと感じたことは一度もなかった。今の、あんの話によると、相性が悪かったという事か。本当のところどうなのかはわからないが、そういえば、魁もあんも、小さな頃からよくいろんな病気を罹ったなぁ~。決して丈夫ではなかった。今になって思えば、やはり相性が悪かったということも、影響していたのかもなぁ~・・・遺伝子レベルで相性が悪いって・・・なんか救いようがないような気がしてしまう・・・こんな話を聞かなければ、全く思いもしなかった事だ・・・”

と、粒はくるくる考える。

「あんは、もしいい匂いに出逢ったら、速攻でアタックしなきゃ!」

と、粒はあんに、けしかける。

「運命の出会いだよ、それは!心が穏やかになるっていうか、落ち着くっていうか“なんだかいい匂いだな”って思うような人に出逢ったら、もう、すぐにでも声かけなきゃ!」

と、粒は諭すように、あんに言う。そう言いながら粒は

“ああ、そうなのだ。子を産む女性の持つ本能が働くのだろうから、100パーセント正しいかどうかは、わからないとはいえ、やはりそういう感覚的に感じるものは大切だと思う。しかし、もう子供を産む機能の衰退している生物に、このような本能が働くこともあるの?それって必要なくない?”

と、おもしろおかしく心に思う。

“あんは、本当に好きな人と、人生を共にしてね”

と、粒は心の中で願う。

「ま、私は結婚しないけどね。」

ほらね。言うと思った。と、粒は、あんに顔を向ける。

 魁もあんも、殺伐とした夫婦のもとで育ってきたから、結婚に対して、夢も希望もなく、結婚は己の不幸を招くものだと思っているのだ。

「ま、結婚しようがしまいが、それは個人の自由だから、どちらでもいいけれど。それは別として、人を好きになるのは素敵なことじゃない。」

「好き。好き。好きーって、頬をすりすりしたくなるくらい好きな人がいたら、それはもう本当に幸せだよ~。」

あんが、気の毒そうに粒を見てくる。粒達夫婦には、そんなことは微塵もあり得ない事だった。
そのような様子を想像するだけで、粒は、鳥肌がたつ。バチが当たるかもしれないが、しようがない。
よく、魁とあん、ふたりの尊い命を、授けていただけたものだと、粒は心底思う。そして、感謝の気持ちでいっぱいになる。

***

 
 粒から見たこの世界は、不思議に満ちている。この宇宙には想像しきれないくらいの、様々な生物が存在していて、それぞれが、それぞれの命を生きている。それぞれが、奇跡的に生きている。
 
 粒は、自身もそのひとつであって、自身の人生も、本当に不思議と奇跡に満ちていると感じる時がある。そう感じざるを得ないような出来事が、誰の身にもおこっているのだろうと思う。
その事は、直面している時に感じる事もあるし、後になって、過去を振り返った時に気付くこともある。

 生は、不思議と奇跡で日々そこに存在している。


 
 長年願い続けた転機へと動き出した粒のもとに、その流れに乗って、思いがけない有り難い入金があった。粒が、社会人になると同時に加入した、貯蓄型保険の期間満了の日がやってきたのだ。
 
 長年契約し、毎月支払い続けてきた保険料。有り難いことに、粒は大きな病気を患うこともなく、また、大きな事故に遭うこともなく、これまで過ごしてくることが出来た。だから、保険に加入していたけれど、そのお世話になる事は一度もなかった。そして、無事に満期を迎え、満期保険金200万円が支払われる日を迎えた。
 
 毎月毎月支払ってきた保険金は、長い年月で、それは大きな金額になり、満期金の額はそれに比べると・・・一言言いたくなる気もするが、あくまで保険なのだ。しかも近頃は、自身の加入していたような、割のいい保険はそうそう存在しないらしいから、有り難く思わなければ、と粒は思った。この200万円は命綱だと粒は思った。本当にありがたかった。
 
 この保険を契約する時には、満期時に、別居、そして離婚の可能性があるなどとは思いもしなかった。当り前といえばそうなのだが、そのような事を、考えようもなかった。
若かった。先のこと等、本当に見えなかったし、そもそも保険に加入したのも、親に言われて仕方なく、だった。
でも、このタイミングで満期になるなんて、なんだか変な感じだけれども、これも立派に保険の役割を果たしている。まるで、今の自分の状況を、過去の自分が予測していたかのようだ、と、粒は思った。

 
 保険職員は、満期の手続きの説明の際、粒の人生において、これから起こりうるであろう様々な不幸を予測して、それらに万全に備えるための、次なる保険を提示してきた。
 
 けれど、粒に必要な物は、将来の安心ではなく、今すぐ手にすることの出来る、現金だった。住居費に、光熱費、通信費、生活費・・・お金が要る。兎に角、お金が要る。保険の職員に、どれだけ心配されたとしても、将来の事なんて誰にもわからない。後で後悔したとしても、兎に角、後より今、なのだった。

 

 粒が、別居を申し出た時は、それは前々から、いつか何とかしたいと思ってはいたものの、きちんと計画的に切り出したのではなく、突発的になってしまった。
予想はしていたが、配偶者は最後の最後まで、これまでの生活を、これまで通り続ける事を希望し、そして勿論住まいは配偶者が存続し、粒が家を出ることとなった。
 
 家探しから、契約まで、経験しなければわからない事ばかりで、それまで見たことのあるドラマや映画などで、いとも簡単に転居したり、入居したりしているシーンのイメージが強かった粒は、しみじみと、経験してみないと本当にわからないものだと思った。そして、命終わる時まで、こんなふうにいろいろな事を、経験していくのだろうなと思った。
 
 それにしても、と粒は思う。魁は、自立心の旺盛な子で、親元を離れるにあたり、ほとんどの事を自分でこなした。親が介入すると、口うるさいばかりで、頼りにはならないと思ってのことだと思う。
賢いことだ。粒も、最小限の事にしか、かかわらなかった。
お節介な事をしても、嫌がられるだけだ。粒も、賃貸物件に入居するのは、今回が生まれて初めてなのだが、魁も、こうして、自分であれやこれやと物件を探して、様々な書類と向き合い、入居したのだと今更ながら思い、粒は何とも言えない気持ちになった。
 

 
 お金の面で一番に確保しなければならなかったのが、あんの学費だった。家計簿をつけず(つけても長続きしない)、何でもどんぶり勘定で、大雑把な管理の仕方で、これまで家計を運営してきた粒だが、魁とあんの、学費だけは死守してきた。
子供達に、教育を受けるにあたっての、お金の心配だけはしてほしくなかったからだ。でも、特殊な、専門的な分野に進んだ場合を除いてなのだが。ふたりとも、そういった方面への希望はなかったから、何とかなりそうだった。
 
 ただし、お金の出所は、ほぼ配偶者の給料だ。
粒は、強気で配偶者に、あんに学費を出してやるのは親の役目で(世間一般にはいろいろ意見があるが、自分としては)、あんは、安心して教育を受けるべきだ。勿論、自分はそのお金に一切手を付けないから、あん自身に、学費の管理を任せさせて欲しいと申し立てた。
これから自分達の生活するにあたり、一切、配偶者に負担をかけることはしない。これまで、あんの学費として積み立ててきた分のみを、そうさせてもらえないか、と。すると、拍子抜けするくらいあっさりと、配偶者はその要望を受け入れてくれた。
 
 粒は、胸をなでおろした。ほーっと息を吐きながら、粒は

“あんが、私と共に家を出るにもかかわらず、了承してくれるなんて・・・例え、私に対しては敵意むき出しだとしても、やはり、子供となると違うのだな、この人でも”

と思った。


 
 命綱を携えることは出来たが、お金の出先が沢山ある。新しい生活に入るうえで、取り揃えなければならない物もある、契約しなければならないこともある。手元にあるお金の行先は、たくさんある。
この先、生きていくために、新たにお金の入ってくる方法を、考えなければならない。
働く。そして、必要な物は出来るだけ吟味して最小限で済ませ、大切に消費する。

“これは、私の人生なのだな“

と、粒はしみじみ思った。



第十四話につづく


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