粒≪りゅう≫ 第十話[全二十話]
第十話
あの匂いに、再び出逢えた喜びと幸福感。
そして、粒の、死にかけたような手に施された、あの、あたたかい処置。
粒は、時間の経つごとに、薄れるどころか、より鮮明になっていくこれらの出来事を思い返す度、リアルタイムでその思い出の中にいて、全身幸福に包まれていた。そんな日々が長く続いた。
粒は
“何もいらないな”
と、ふと思った。
小さいころから、結構人の目を気にして生きてきた。
親に心配をかけてはいけない。
人に迷惑をかけてはいけない。
言われたことには素直に従い、自分に出来る精一杯を尽くす。
規則は守るためにある。
確かにそうだ。
人が喜ぶことをしてあげよう。確かにしてあげたい。
人がなんて思うか考えてごらん?
様々な言葉に、支配されてきたような気がする。
本当の自分がどんなかなんてわかりはしないし、わかろうと思っても生涯掛かってわかるかどうか・・・。
だけれど、自分に正直に生きているかどうか、ならわかる気がする。
粒は、自身が時折心の抑制が効かなくなり、全てが嫌になり、全てが無意味に思え、自分の無価値さと汚さと小ささが、とことん嫌になり、絶望的になるのには、自分に正直に生きていないという訳があったように思う。
両親に【粒≪りゅう≫】と名付けられた。
粒・つぶ・小さな個体・・・こめつぶ・・・。
親しい人からは『つぶちゃん』と呼ばれることが多かった粒。
どんなものでも小さなものから成り立っている。
どんなことも小さな積み重ねから成り立っている。全ては、小さな一つから始まっている。
この広い宇宙に存在するものひとつひとつが、全て小さなものから出来ている。
粒もその一部であって、粒自身も目に見えない、認識するのも困難な、小さな粒から出来ている。
粒にこの名をつけてくれた両親は、もう既に他界していて、その姿を肉眼では見ることが出来ないが、粒には、存在し続けているように感じる。
粒が、周りから名前を呼ばれる時、名前を付けてくれた両親も存在する。
粒が、思考を巡らせる時、生まれて独り立ちするまで養育してくれ、支えてくれた両親もそこに存在する。
粒が生きている限り、様々な場面で、良くも悪くも存在し続けるのだろう。
これまで培われてきたものは、全て意味のある事だった。
例え、人から見て無意味で無価値なことであっても。例え、自分を苦しめるような、自分をないがしろにするような選択をしてきたとしても、きっと意味のある事だった。
そうして、それら全ての要素で成り立っている自分が、今ここにいる。
“何もいらないな”
と思う。
粒は、あの匂いに出逢って、覚醒したのかもしれなかった。
何も知らず何も出来ない、小さく弱い生き物だった新生児から、多くを学び多くを体験し多くを感じ、今ここにある自分になるまでの道のりは長かった。
それはそれは途方もない小さなものの、粒の積み重ねで今日まで来た。
その道のり上で、確かに大金持ちになりたいとか、有名人になってみたいとか、立派な役職に就いてみたいとか思った事もあった。
あんな物があったら便利だとか、こんな暮らしだったらとか、ひとつ叶うとまた新しく浮上してくる切りのない欲望。
それは、子供に対してもそうだったかもしれない。
でも、今はもう、何もいらないのだ・・・あ、やっぱりいる。
ひとつだけ欲しいものがある。あの《におい》。あのぬくもり。それを持つ人。
“あの、心から安心できる匂いに包まれて生きていけたら。あの人の存在を感じながら生きていくことができたら、どんなに心地よく幸せにいられるだろう・・・”
粒は、覚醒したのではなく、壊れてしまったのかもしれなかった。
まだ数回会って言葉を交わしただけで、しかも、一社員と客の関係であり、そもそも彼の匂いに強烈に魂を奪われているなんて・・・。
***
「元気そうで何より!」
「寒いね。」
「ね、毎日寒いねー。でもさ、今日久々に、いいお天気で良かったね。」
「ほんとに!今日は洗濯物、乾くよね!」
「さ、早く中に入ろうか!」
お決まりの【すまいる】の、店頭で落ち合った三人は、暖を求めて早急に店内に入った。
真利も美苗も相変わらず元気そうで、粒はそんな二人から、会って早々に、もう既に元気をもらっているのを感じた。
二人の顔を見ると、ほっとする。
粒は、二人に会うまでは、それまで起こった出来事の、あんな事もこんな事もと、話したい事が山積みなのだが、いざ二人を前にすると、不思議と話そうと思っていた内容が、どこかへ飛んで行ってしまう。
不思議だなあと思う。
聞き役に徹しているわけではない。
無理に話さなくても、居心地の悪くなるような相手でもないから、というのもあってか、自分から勢いづいて話す事はあまりしない・・・。
それで、最初は、訊ねられた事や投げかけられた事に対して返答したりして、そうこうしているうちに、頭が回ってくるというか、徐々に身の上話が出来るようになってくる。
いつもの粒なら。
ところが、なんだろうか、今日の粒は話す気になれずにいる。
本当は、信じられないような出会いがあった事を、二人に聞いて欲しかったのではないか。
実は、自分は、今までの殻を破って、違った世界へ行こうと試みているのだと伝えたかったのではないか・・・と、粒は、心の中でもぞもぞしていた。
「ね、つぶちゃんは?検診とか受けてる?」
不意に投げかけられた、真利からの質問に
「ん?ああ!メタボ検診は受けてるけど、乳がんとか、大腸がんとか、そういうのは受けたことないなぁ」
少しぼぉーっとしていた頭の中を、クルリと見まわして、粒は答える。
「そろそろ受けた方がいいよー。よく言うじゃない。もっと早く受けておけばよかった!とか。他人事だと思ってたけど、まさか自分が!とかさ」
真利が、身を乗り出して言う。
「なんだか歳と共に身体に自信がなくなってきて、ちょっとどこか具合の悪い所があると、ああ、ひょっとして何か大きな病気でも患っているんじゃないかと、凄く不安になったりしちゃって。」
頬杖をついていた手で、両頬を包み込んで本当に不安気に、美苗が言う。
「自分に何かあったら、家族にも迷惑かけるだろうし・・・。」
二人の話していることは、確かなことだった。
粒は
“ああ、私にはこういう思考回路が全く働いてなかった。”
と、困惑した。
自分はやはり一般的ではないのだ、考え方や感じ方や言動が。と、改めて思った。
そして、今日二人に話そうとウキウキしていた、少し前まで口元にまで来ていた話題は、そのまま静かにゴクンとのみ込んでしまうことにした。
普通、といっていいのかわからないけれど、普通は、妻で母親ならば、家族の事を考え家族の幸せを願い、仕事に家事に育児にと日々生きる。
そして、その日々の中に喜びや幸せや充実感を感じる?夫や子供を愛し、癒され。ああ、私はこの家族の一員で良かった。ずっと末永く仲睦まじく、暮してゆきたい・・・と心から思う?
粒は思った。
この先、子供に掛けてやりたいお金が、まだまだ必要だろうというのに。
今後どんどん年老いてゆき、労働力も右肩下がりで、それなのに、長寿社会で、これから先一体いくらあったら安心な生活が出来るかもわからないというのに。自分ときたら、大金をつぎ込んで、自費出版。
そして、人に説明のしようもない恋のようなものをして、ぽわぽわしている。
その後も粒は、二人の話を熱心に聞き続け、心の中で
“話さなくて良かった”
と、何度か呟いた。
第十一話につづく