李牧の演説
漫画キングダム第791話「他人の戦争」について
戦いと演説
「キングダム」は戦争漫画である。当然、戦場で将が兵士にむけて語るのは最も多いのは言うまでも無い。だが戦いとは戦場だけにあるとは限らない。人が戦うということは、生きている中で別の場所で生きている人と争うことになる。故に戦いとは戦場に留まらず、人間社会で生きる人ならば生きている間は日頃の生活であっても戦っていることになる。
「キングダム」で兵士以外の人達に向ける演説シーンはいくつかある。
この手の演説で読者に一番印象に刻まれるのが、蕞の秦王嬴政の演説であろう。
あの演説無くして秦国危急存亡の蕞の戦いを凌ぐことは出来なかった。
秦王自ら国難の状況、失うものの大きさと戦う覚悟を真摯に蕞の民に演説して遂に逃げ腰だった民を兵士に代えた。
昌文君や信にさえ沸き立つほどの感動と士気を与えるほどの演説は今後の「キングダム」においてももう比肩する演説シーンはあり得ないであろう。
その蕞を抜こうとした趙の李牧であるが、今回は自分の復権と秦軍への脅威を阻むために避難先の青歌城で青歌の民を兵士に代えるために演説を行った。
李牧の演説
(︶^︶)構図としては蕞の秦王嬴政と似通っている
このまま動かなければ秦の脅威は防げない。雁門、青歌、そして趙国が滅ぶ。 蕞でここで防がなければ秦国滅亡すると先ずは現状から未来への展望を述べる。
だが根本的に違うことがある。
巨乳艦長とイケメン大将軍
秦王嬴政は戦って負傷し流されるお前達の血はお前達の父、祖父達が今の秦国とその生活を築き上げるために戦って流してきた血と同じなのだと説いた。
李牧は貴方たちの安全は周りの犠牲の血で築き上げられている、貴方たちはそれでいいのかと羞恥を説いた。
外の犠牲、他人の戦争は貴方たちと無関係では無いのだと。
「機動戦士ガンダムSEED」でマリュー・ラミアスがヘリオポリスコロニーで銃を突きつけて周りと貴方たちは無関係では無い話をキラ達に説いたのと全く同じである。
しかし、マリュー・ラミアス艦長は機密保持のために彼らを拘束し、いずれは開放するつもりだった。が、李牧にそんな余裕は無い。
泣き落としてでも秦の大軍に対抗するための武力をかき集めねばならないのだから。 文字通り使える者は使う。
一介の軍人と政治に介入できる軍人とでは命令と実行の影響が格段に違う。
軍人が無闇に政治に立ち入らないこと、軍人が政治を理解し意見するのは全く矛盾しない。
敵意を防ぐという外の力でない、味方の余力を考慮する内の力の影響を鑑みなければ国防の軍人として十分な統帥が適わない。
団結する心
蕞では嬴政は国家家族の絆の伝統を説き、青歌の李牧は羞恥心を説いた。
同じ国家滅亡の脅威だが対抗する団結心を作るにはそれぞれが違う。
o(TヘTo)軍人なんだなぁ李牧。。。
李牧の演説のそれは徴兵、召集である。実利を出さなければ兵は集まらない。
勝ち続けますと脅威の排除の約束までした李牧に悲愴感が漂う。更には煽動するまでの焦りすら感じる。
蕞での秦王嬴政の演説でも悲愴感・煽動焦燥感はあったが、一体感が強く感じられる。
共に戦うと両者は揃って演説したが、どうしても李牧側に一体感が足りない。 足りないものとは何なのか?
嘗て玉座奪還戦で李信こと信が王弟に言ったように、李牧の演説は脅しの域に留まったままであって、檄としては不十分のままでいる。
兵法のタブー
要するにそれだけ青歌の民に趙国への忠誠、団結心が足りてない。。
これは兵法としては致命的である。
団結心が足りてない国家は戦い続けられない。
だからこそ李牧は勝ち続けるとまで言わねばならなかった。如何に李牧が趙が苦しいか分かろうというものだ。
国士ともいうべき李牧でさえ国内では届かないところがある。
対する秦国はどうか? 内乱を完璧に鎮めたために挙国一致ができている。王様から大臣、将軍から兵士、秦人まで政令が届き服している。
そんな秦国では最下層の下僕から著名な将軍にまでなった李信がいる。
下層民たる下僕からのし上がった李信は秦人では憧憬である。挙国一致している国家の兵士であれば尚更親近感を持ちやすい。
親近感とは絆になりやすい。この辺りを考慮せず王翦を打倒最優先とした李牧は、軍人として傑出しているが政治の視野の限界を思わせる。
*^____^*優秀な軍人とは優秀な政治家でなければならないとは名言です。
挙国一致している国家の軍兵と漸くカリスマで説得させた軍兵では後者には継戦力が足りていない。
国家としては如何に団結心を養うかが問題なのだろう。信をどれだけ高めるか。
シータの心
シータがムスカ大佐に言い放った台詞。これを今回話の感想で書き換えるならこうする。
どんなに凄い武力を持っていても可哀想な兵士を操っていても邦から離れては生きられないのよ
李牧、司馬尚の選んでいる道は美しい。だがその段階は過ぎている、遅すぎたと言えてしまう。
秦王嬴政の蕞の演説の全てがそれを物語っている。お前達の父もそのまた父も血を流して今の秦国を作り上げた。今の生活はその上に成り立っていると。
強さに大差が無ければ・・・心を多く持つ側が強い
守るものが多い人と守るものが少ない人。血という家族だけでなく、その家族と共により多くの仲間達と共に明日のために戦い生きてきた日々が積み重なる。
そこが土、邦、国家に通じる。国に信があれば心はふたつになる。勝利は時の運、天の掟だと言うのであれば、地(国)と人に信が揃えば無闇に敵を恐れることも無いだろう。
一致団結できる国家は強い。かたや趙は王翦が見抜いたとおり李牧のカリスマと武力で支えてきてしまった。
何も民主主義が最高の統治方法ではない、所属する人々がどれだけ自分と他人、公ともいうべき広い社会を見る目と力を団結できてきたか、それが信になる。
兵法家だけでなく孔子でさえ力説していた人の世の掟、徳、勝利の理です。
、(_ _|||) 遅すぎた!!!戦争は一人では戦えない、戦争は一人では支えられない。
演説の場面としては秦王嬴政より困難な状況で青歌の民の説得を果たした李牧の力量であったが・・・
遅すぎたというべきであろう。
智将として宰相でも務めながら兵法の大綱が欠けていることに気づいていない(気づいていても直せない)李牧はやはり悲劇を避けられぬ大将軍だというのは酷であろうか。
死にゆく前に信に戦いの本質をきちんと教えて逝った王騎大将軍は教育者としてもかくあるべき姿で偉大でした。
そして、その初心を忘れなかった信はアニメでも不撓不屈の光を放っている。