おいしいね、の「ね」は恐ろしい
店に入ってご飯を食べていた時、聞こえてきたカップルの会話から今回のテーマを思いつきました。
「おいしいね」
「綺麗だね」
「楽しいね」
「辛いね」
「悲しいね」
「ね」の一音は感覚の共有をしたい時に用いられる。共有といえば聞こえがいいが、私はこの言葉がずっと引っかかっている。
人それぞれ、どの程度を楽しいと思ってどの程度を悲しいと思ってどの程度を美味しいと思ってどの程度を不味いと思うかには当然差がある。
例えば「おいしいね」と言われたのに対して「いや、別においしくない」と言ったらムードは最悪になるのは想像に容易い。大人なカップルは「そっか」ぐらいで済むだろうがそれでも空気感は最悪。それこそ大人気ない発言。
つまり「おいしいね」と言われた途端に相手は「おいしい」としか言えない空気感を強要されているのではないかと考える。
感想はそれぞれ、感覚はそれぞれ、思考回路もそれぞれ。そもそも誰1人としてこういった所が似ている人はいたとしても全く同じ人はいないので。
私個人としては、この一件から「ね」を一切使わない様にしている
「おいしい」とか「綺麗だ」とか、まあ声に出してしまうのは一歩譲れるけど、その後に「ね」を付けるだけで感じられるそれ以外の感想を言うなよという大きな圧。
仲のいい人に対してなら尚更、使うべきではない助詞なんじゃないかと個人的に思う。
たった一音、つけるかつけないかによって言葉はかなり変わる。
人とコミュニケーションを取る手段は言葉が中心。ならば言葉をうまく操った方がメリットが大きくて良い。